ある男の幸せ追及と子育て日記

元役者で転職15回、結婚4回、50歳を過ぎて初子育てと、何かと波乱万丈な人生を歩んでいます。子育てや所感を中心に人生の幸せを追求していきます!

役者道スタート!

 前回お話した通り笹塚にある小さなプロダクションに所属することとなった私ですが、元東映の役者だった社長の下で夢に向かう暮らしがスタートしました。

所属俳優は10名ほどの事務所でしたが、先輩たちも優しく色々と教わることから始まりました。

まずは首都高速の高架下での殺陣の練習(人に見られるのは正直恥ずかしかったですが)や、社長の勧めで埼玉の乗馬教室に通ったり、また社交ダンスや日舞の練習にも行きました。

 

 社長が時代劇が大好きということもあり、いつでも時代劇に出れるようにそういった稽古をしていたのですが、当時はトレンディドラマが主流の時代で、若い私には何となくかっこ悪いなというのが正直な気持ちでした。

 

 

 ただ稽古を始めて約1年後にNHK大河ドラマのロケに参加させていただく機会が回ってきて、約1ヶ月ほど栃木県でのロケに参加しました。

今はエキストラといえば一般の方を募り、無料で出演するという事が多くなってきたかと思いますが、当時はエキストラはエキストラ事務所から派遣された人が参加しており、私はエキストラよりは上で役者さんよりは下という位置づけでした。

有名な役者さんのお付きの役であったり、エキストラの方達の先頭で戦場に向かう掛け声をかける役等、劇団には通っていたものの特に出演実績の無かった私は無我夢中で1シーン1シーンに臨んだ事を今でも鮮明に覚えています。

時代劇といえば顔に思いっきりメイクを施し、着物を着て鎧を纏うのですが、初めての経験だった私は売れっ子役者でもないのにスタッフさんに全部やっていただき、今思えば非常に恐縮する出来事だったかと思います(若いって怖いもの知らずですね)。

 

 有名な役者さんが数多く出演されていましたが、そこではプロの仕事というものをまじまじと見る機会があり、心の中では「これがプロの仕事か」と思うことがしばしばありました。

シーンを撮る前の表情は穏やかで、スタッフさんにも他の演者の方に対しても気遣いを見せたりもするある有名な役者さんがおりましたが、その方は本当に鳥肌が立つほどスタートとともに憑りつかれたように役に入り込む姿勢は本当に別格でした。

 

 もちろん名前は売れているけど人間的にはちょっとという役者さんも数多く見ましたが(サラリーマンでも同じですよね)、とても勉強になる経験となりました。

 

 シーンによって監督や殺陣師の先生が「じゃあお前次やってみるか」というような感じでしたが、周りの私と同じ立場の役者さんの中でも、積極的に自分を売り込む人の方を選ぶ傾向があり、年を重ねた今の自分はどうにでも変化出来ますが、当時の私は権力者に媚びるということがどうしても出来ない人間だったので(売れてもないのにプライドが高いんですよね)、1話の中でも周りに比べ私は出演機会が少なくなってしまいました。

 

 大半が大手劇団や中堅事務所の役者さんが多く、弱小プロダクションの私は事務所からひとりで参加しているため周りに話が出来る人もおらず、たまに声をかけてくれる他の事務所の方と話をしているような日々でした。

また、私だけ大人数でロケに参加していない事もあり、ある意味得をする場面もあり、その点は良かったかと思います。

他事務所だと次のこのシーンをやるのは先輩優先や、じゃんけんで決める等、話し合いが必要な状態でしたが、私は監督や殺陣師の先生が「じゃあこれお前やって」と直接私に言ってくれるため、有名俳優さんのそばでシーンを撮る機会は多かったです。

 

 ある日、私だけある有名俳優さんとシーンを撮る機会があり、ホテルからタクシーにひとり乗り込みロケ先に行くのですが、タクシーの運転手さんにまず「お兄さん有名な俳優さんなの?」と聞かれ、「いえいえまだ始めたばかりです」と答えると、運転手さんは「・・・」となり残念そうでした。

もうすぐロケ地に着くといった時、ロケ地周りにはロケを見ようとする人だかりが出来ており、それを見た私は嫌な予感がしました。

 

 嫌な予感は見事的中!!

私が車を降りるなり「きゃー」「わー」「誰誰」と多くの人が大きな声を上げていました。その後私を見るなり「・・・」「有名な人なのかな」「誰誰、知ってる?」等の声が飛び交っており、心の中の私は「ごめんなさい」「売れておりません」「あまり見ないでー」と叫んでおり、そこをかき分けて関係者入口へ向かいました。

 

 俳優さんのエピソードもいっぱいありますが、今は普通のサラリーマンですし、エピソードについては割愛させていただきます。

 

 何か訳も分からず無我夢中で参加した芸能界での初仕事でしたが、若い自分ならではの恐いもの知らずの精神で無事乗り切ることが出来ました。

今思えば後々のために顔をもっと売っておけば良かったと思いますが、それはこの年齢で経験を重ねたから思えることであり、もしタイムマシーンという物が存在し、過去に戻り若い自分に対したくさんアドバイスをしても当時の自分は聞く耳を持たなかったと思います。

 

子供がこの年になってから出来たのも運命ですし、とにかく過去のことを綴りながら今を必死に生きようと思います。

 

 

本日も長い文章にお付き合いいただきありがとうございました!

 

 

 

根暗の夢は大きい!?最終話(役者に向けて再始動)

 地元から再び東京に出た私は、まず住まいを決めるところから始めます。

 

 少し話は遡って高校2年生の時でした。

夏期講習を受けるために東京の予備校へ夏休みの間に行く機会を祖母が設けてくれ、その時に泊まったビジネスホテルが渋谷区の幡ヶ谷にありました。

 

 その後、新聞販売店に行った時もなぜかひとつ横の初台にあり、何かと縁を感じたのと土地勘があったこともあり、再上京した時も幡ヶ谷で物件探しをしました。

もちろん風呂付など探せる余裕も無かったので、当時商店街にあったお米屋さん(昔はお米屋さんが不動産業を営んでいたところが多かった気がします)の紹介で、幡ヶ谷駅から徒歩15分ほどの1Kを契約しました。

以前よりはグレードアップし、鉄筋の1Kで6帖とキッチン3帖ほどでトイレのみ付いており、家賃は管理費込みの38,000円でした。

ただそこの大家さんに直接家賃を持っていくのですが、毎月1,000円キャッシュバックしてくれる大変優しい大家さんでした。

その大家さんはご高齢だった事もあり、大家さんが6年後にお亡くなりになられるのですが、それまで私はそこにお世話になりました。

 

 さあこれからどうしよう…。

まずは仕事を見つけないとな。

 

 当時、高校の同級生が専門学校に通っていたのですが、彼がひとつ横の笹塚の便利屋でアルバイトをしていると聞き、彼の紹介で便利屋で私も働かせてもらうこととなり、今でも覚えておりますが、一番最初の仕事は当時原宿の表参道にあった同潤会アパートの草刈りで、今は道交法上無理でしょうがみんなでトラックの荷台に乗り、THE東京という景色を眺めながらこれから先の事にワクワクした気持ちで臨んでいた記憶が残っております。

 

 私が再度上京したのが1990年で、東京はまだまだバブル感満載の時代でした。

便利屋の仕事も今となっては考えられないくらい仕事が多く、オフィスの棚のいくつかを縦から横に変えるだけの仕事、幕張まで行きタレ幕を吊るすのに金具に幕を付けるために5秒ほど持つ仕事(周りにいる誰かに頼めるレベルですよね…)、一般家庭に脚立を持っていき電球を替えるだけの仕事等、めちゃくちゃバブルの恩恵を受けた訳ではないですが、若い私の心の中は世の中楽勝だなという気持ちでした。

役者を目指すことよりも、楽な暮らしが染みついた私でしたが、あるきっかけで役者になるチャンスが訪れます。

 

 当時の便利屋に下北沢で定期的に舞台公演を行っている先輩がおり、その先輩から「おまえ役者を目指しているんでしょ?」「この先どうすんの?」と聞かれ、何も答えられなかった私に「大人計画って劇団があるんだけど、お前入りたいなら紹介するよ」と言われ、聞いた事もないけどお願いしようかと思ったのですが、当時の大人計画はまだまだ無名だった事もあり、先輩曰く「チケットをさばくノルマは多分あるよ」と言われ、根底が根暗で人見知りの私としては心の中で「知り合いいないし、色々無理かぁ」という気持ちが勝ってしまいました。

今考えると大人気劇団の創成期に関われるなんて幸せな事では無いかと、たまに思い返しますが、それが私の人生だったし、運命なのでしょうね。

 

 結局、その先輩から笹塚駅の近くにある小さな芸能プロダクションを紹介してもらい、20才の私は夢を膨らませるのでした。

 

 次回より役者編にて記事を投稿致します。

 

 本日も長い文章にお付き合いいただきありがとうございました!

 

根暗の夢は大きい!?③

 さて前回お話しした続きですが、弟のドラム熱は冷めることなく、大学進学後も軽音楽部に入部したい気持ちのほうが強く、県でトップの公立高校を卒業したのですが、選んだ大学は、推薦入試の日程が一番早い大学を選択しました。

当時私も弟に「他も十分に受かるのにもったいない」と進言しましたが、こうと決めたらテコでも動かない性格だったため、そのままその大学に入学しました。

大学入学式時にその日のうちに入部の意思を先輩に伝え決めたそうです(私と違って積極的なところが羨ましい)。

大学ではドラムの需要がかなり多く(確かにドラムを叩ける環境ってなかなか難しいですよね。私の実家の隣が材木屋さんだったので、日中は材木を切る音がかなり大きく、ドラムを叩いても平気な環境でした)それから色々なバンドを掛け持ち、ライブハウス等にも出演したようで、後々プロデビューを果たすこととなるのですが、そのプロデビューのきっかけになったインディーズバンドとの出会いがあったそうです。

当時のボーカルの方が弟が演奏しているのを見てスカウトしたそうです。

バンドメンバーの大半はすべて弟よりも年上で、当時はインディーズ活動していてそこそこファンもおりプロデビューを目指していたようですが、ライブハウスで演奏をしている際にあるプロデューサー(かなり有名なバンドのプロデューサーですが伏せさせていただきます)の目に留まり、運良く弟は大学卒業と同時のタイミングにてプロデビューを果たしました。

余談ですが、大学の先生から「こんなに優ばかりの成績なのにもったいないと」と親は言われたようですが(何か私と弟の父の対応の違いも気になりますね)。

バンド自体はファンも多く、深夜番組のオープニングやエンディングにも楽曲が使われたいたのですが、事務所の目標であるオリコンチャートになかなか入らず、約3年ほどでバンドは解散となりました。

その後、弟にはスタジオミュージシャンの話もあったようですが、ボーカルの方にかなり心酔しており、他のバンドではプロ活動はしたくないとのことで、解散と同時にプロミュージシャンの道を断ちました。

ただ現在もマチュアで複数のバンドを掛け持ちながら、趣味としてドラム演奏に励んでおります(趣味だと思い切り楽しめるそうです)。

 

 ここで言いたいのは、祖父、父、私、弟と何となく出だしは順調に行きそうなのに、結果として夢叶わぬ家系ですよね…(まあ叶う確率が低いものばかりですし、その道を経験出来ただけ良いのかもしれませんが)。

 

 ここで私の役者人生についても触れたいと思います。

その前に経緯の説明を致します。

 

 私は役者を目指すため18才で上京しました。

当時父は大学には必ず行けと言っておりましたが、私が行きたかった大学が日大の芸術学部や早稲田の第一文学部の演劇専修等すべて演劇に関わる学部だったため、父からは「高い金払ってそんな役にも立たねぇ学部に行ってどうすんだよ!」とかなり叱責されたため、半ば諦めていました。

百歩譲って映画や演劇の専門学校への進学の話もしましたが、同じ理由でそれも見事に却下されました。

私自身、高校時代はランクを落として入学したこともあり、高校2年と高校3年の間はずっとクラスで1位で、全体でも最高が3位で平均は10位ほどの成績でした。

偏差値自体は早稲田には足りなかったものの、それなりに良かったので、出来れば日芸(ただ倍率が尋常ではなかったので、偏差値が足りていても落ちる可能性は高いですが)に入学する事が当時の目標でした。

そういった中、何とか家を抜け出したい気持ちがあり、自身の力で予備校に通うからと親に伝え(本当はいち早く東京に出たかったのですが)、新聞販売所の住込み求人に応募しました。

上京して最初の自分の城はわずか3帖の共同トイレという環境でしたが、夢があったので当時は何とも思わず非常にワクワクしていた記憶が残ってます。

当時の販売店仲間も非常にいい人揃いで、あれから34年経ちますがその中のひとりはいまだに親交があります。

結局予備校へはまともに通わず、毎日自由を謳歌しており、翌年形だけ受験しましたが、当時は倍率が40倍50倍は当たり前の世界で、ひどいところですと100倍超えもありました。

真面目に受験に取り組まない自身に受験の神様が微笑んでくれるわけあるわけもなく、受験は全敗に終わりました。

 

 新聞販売店を退所後は4帖半風呂なしトイレ共同に引越しましたが、怒った父から当時実家に連れ戻されました。

連れ戻されたあとは強制的に地元の予備校に通わされましたが、働いて収入を得て楽しむことを覚えた私にその生活は耐えきれず、途中地元の大学生の友人の紹介でアルバイトを始めました。

そこで唯一良かったことは、車好きの私がその期間で免許を取得出来たことでした。

 

 結局、またまた翌年受験はものの見事に惨敗(当たり前ですね)。

2浪したあげく、どこにも受からず、ただただ途方に暮れるばかり。

 

その瞬間、またまた気持ちは東京へ傾くのでありました!

長くなったので次回またお話できればと思います。

 

本日も長い文章にお付き合いいただきありがとうございました!

 

根暗の夢は大きい!?②

 先日祖父の話をしましたが、私の家系はなかなか夢が叶わない遺伝子が働いているようです。

祖父も役者の夢は叶いませんでしたが、私の父も叶わなかったようです。

父の夢はボートレーサーだったそうで、事実大田区大森にて研修生として入所はしました。

研修生の中では父は背が高く、体格が大きいことで何かと苦労はあったようですが将来の賞金王を目指し頑張っていたそうです。

どういった経緯で出演に至ったかは定かではありませんが、大森の競艇に所属している時に高倉健さんの映画で、高倉健さんの恋人役の弟がレーサーという設定の吹替で出演したそうです。

結局、競艇選手の夢も私の母に出会ったことで叶いませんでしたが、叶わなかったから私が存在していますし、非常に複雑です。

当時母が大井町に住んでおり、祖父がいない家庭の家計(弟と妹の学費の補助等)を助けるために私の父が研修中に副業で喫茶店の夜間のマスターをしていたそうです。

そこで私の母と出会ったそうですが、父が一目惚れし猛アタックに根負けして付き合いだしたと聞きました。

母とはうまくいっていたようですが、父の母(私の祖母です)が大事な息子を取られるといわんばかりに嫌がらせをしたようで、しばらくしてから東京を離れ実家に帰るという話になったそうです。

母を失いたくなかった父は、後日ボストンバッグをひとつ持ち母の実家まで追いかけてきたそうです。

ずっと東京で育った父は右も左も分からぬ九州の田舎で暮らす事を決心したようでした。

当初は東京にやはり未練があり、私が生まれてからしばらくして母を連れ東京に戻ったようですが、やはり母と祖母の折り合いが悪く、完全に諦め九州でその後暮らすこととなります。

私が生まれた県は方言が強めの県なので、就職した際に父は他の同僚から「こいつは頭がおかしいんじゃないか」や「何を言ってもはいとしか言わない」「質問と答えが全く合っていない」と辛い思いはしたようです。

そりゃそうですね。

方言の無い所から、名詞の名称すら違う表現の県に移った訳ですから。

今はエセ方言を使えるまでにはなりましたが、父もコミュニケーションが取りづらいなかでとても苦労したのではないかと思います。

 

 話がだいぶ逸れましたが、もうひとつ夢が叶わぬというエピソードがあります。

それは私の7才年下の弟です。

弟は非常にクールで、慌てふためいた場面を見た覚えがない人間で、私が高校卒業後は東京に出てしまったため、小学校高学年から高校生までの弟の事は良く分かりません。

話が前後しますが、劇団に通いだしていた私は次第に音楽にも興味を持ち、何か楽器が出来ないかなと考え高校1年生の頃にドラムセットを購入し(無メーカーの安物でしたが)練習を始めました。

その練習風景を弟がそばでじっと見ている事が多かったのですが、「お前もやってみる?」と聞くと首を横に振りやろうとはしませんでした。

ただ練習中は必ず横で見ており、私も気にはなり「やる?」というとまた首を横に振ります。

そんなこんなで私が上京したあとですが、母から弟が憑りつかれたようにドラムの練習を毎日していると…。

「やはりやりたかったのか…」

正直年が離れた分、今まで兄弟喧嘩も一度もしたことが無い私と弟ですが、年の離れた兄に遠慮してたんだなというのを強く感じました。

その後弟は高校入学時にはバンド結成し、文化祭では自慢のドラムテクを披露し、楽しみながら演奏するまでに至ったそうです。

 

そこから話はまた続きますが、また次回お話したいと思います。

 

本日も長い文章にお付き合いいただきありがとうございました!

 

根暗の夢は大きい!?①

 私は色んなことに目移りします。

未だにそこは変わらず、安定していると刺激が無くなり、そこを壊したくなる衝動に駆られます。

なぜそんなことを言い出したかというと、私の最初の夢は国家公務員1種試験に受かることでした。

根暗の割には幼いころの方が野心が強く、そこは絶対に人に見せない人間でしたが、子供なりに当時色々調べて国を動かすにはそこに受かるしかないと考えておりました。

多分根底には父親の影響もあり、子供の私に向かって「世の中は使うやつと使われるやつしかいねぇんだよ」という台詞が強烈に残っていた気がします。

私自身、いじめも経験しておりましたし、差別発言も多く飛び交っている時代でしたから、まずは自身が上に立ちそういったことを無くしていこうと子供ながらに決意したのかもしれません。

ただ小学校の高学年で抱いた夢も、中学校入学と同時に入退院を繰り返し、成績も思わしくなかったこともあって、勝手にもう間に合わないなと早々と打ち砕かれた気がします(おいおい)。

 

 もうひとつ小学校から思っていた夢があり、それは落語家でした。

外で遊ぶことが少ない私は、母が仕事から帰る間に祖母の家でテレビをよく見ていました。

ある日演芸番組か何かだと思いますが、高座でひとり何役かを演じている落語家さんの話を夢中になって聞いており、とても輝いていた印象を受けました。

元々ひとりが好きでしたし、共同作業の苦手な私としては最適ではないかと感じ、滅多に話さない父に対し「中学校を卒業したら落語家になりたい」と勇気をふりしぼり言ったのを覚えています。

ただ案の定「てめぇふざけてんのか!」「中学出て、もし落語家にもなれず社会人になったらどうすんだよ!」「バカ言ってんじゃねぇよ!」と立て続けに否定の言葉が私を襲ってきました。

それでもあきらめのつかなかった私でしたが、ある日新聞広告が目に留まりました。

それは劇団員募集という広告です。

父に言うのが怖かった私はまず母に話をしました。

母から返ってきたのは「まずお父さんに言わなきゃ、私がいいといっても許してくれないよ」という台詞でした。

「確かに…」と私も思い、ある日再度勇気をふりしぼり父に言いました。

帰ってきたのは意外な台詞で、「剣道を続けながらやるというんだったら許してやる」と。

補足ですが、私は母方の家系が剣道の師範をやるほどの家系だったので、小学校5年生から強制的に剣道部に所属させられていました。

話は戻ります。

「え?」と意外な返事にびっくりしましたが、「ありがとうございます!」と次には言っていました。

それからオーディションを受けて無事入団という運びとなり、週に1・2回のレッスンに通う日々が高校3年生まで続きました。

 

 なぜ父が許したのか後日分かったのですが、私の東京の祖父いわゆる父の父は舞台役者だったそうです。

私が劇団にと話した時に、あとから父が母に対し「血は争えないな」と話したらしいです。

その祖父ですが、若いころは進駐軍の通訳をやっており、その後名前は割愛しますが明治生まれの有名な俳優さんの付き人をやりながら舞台に出ていたようです。

ただ、役者だけで食べていくのが難しかったようで、色々祖父にも葛藤があったのでしょうが、父が中学に上がるころには年の離れた新しい女性を作り、家を出ていったそうです(これも成人になり父から聞きましたが)。

離婚後はその女性に食べさしてもらいながら(ヒモってやつですね)、新宿ゴールデン街の近くに住んでいたそうです。

私が生まれ、2才位の時に離婚した祖父に初孫を見せるため、父と母が私を連れていった際には「離婚した俺を恨んでいるだろうに、ありがとう」と言って泣いて喜んだそうです。

私も50才を過ぎて子供を授かりましたが、昔厳しかった父も私の子供を非常に可愛がってくれます。

孫はやはり可愛いいんですね。

 

私はに出会えるのかどうか…。

 

話がまだまだ長くなりそうなので、本日はここまでとさせていただきます。

 

本日も長い文章にお付き合いいただきありがとうございました!

 

 

 

 

 

中学1年で十二指腸潰瘍デビュー

 私は十二指腸潰瘍で中学1年生と中学3年生の時に2回入院しています。

原因としては小学校時代から色々悩み続けたこと、さらに中学校というまた違う環境の変化に違和感があったことが原因かと思います。

今のように学校へ通わないという選択肢が無い時代でしたし、学校は必ず行くのが当たり前の世の中でしたし、長男ということで父親の期待が大きく、勉強に関しては「俺の息子だから成績良くて当たり前」というプレッシャーかけられ続けられました。

前にもブログに書きましたが、父親が非常に厳しい人でしたし、私としては学校に行きたくないと思ったことも多々ありましたが、そんなことは恐くて一言も言えず、とにかく我慢我慢の連続だった気がします。

 

 中学校に通いだして最初の夏休みが終わり、2学期に入ってからだったと記憶しています。

ある日、胃に激痛が走り、保健室へ運ばれたのですが、保健室の先生も私の青ざめた顔を見るなり「今日は早退して病院に行きなさい」と言われ、その日は早退しました。

やっとの思いで自宅に帰り、母親に事情を話し、祖母と母に連れられ近所の内科に検査を受けに行きました。

いきなり看護師さんに人生初めての浣腸をされ、思春期に近い人間としては非常に恥ずかしかった思いをしました。

浣腸後お腹に違和感を覚え、トイレに駆け込むと見た事ないような真っ黒なう〇こが出ているではありませんか!?

そのことを先生に伝えると「それは血便といって血が混じった便なんだよ」と教えられ中学生の私は驚いた記憶が残っています。

そのまま即入院となり、しばらくは点滴のみで食事なしの生活を送り、食事もできずにひたすらベッドの上で点滴を1日3回打つという日々が続きました。

若かったため回復は早かったのですが、それでも1ヶ月は入院生活を送りました。

なぜか中学2年の時は問題なく学校生活を送れてはいましたが、3年に上がりまた同様の時期だったと思います。またまた胃に激痛が走り、再入院となってしまいました。

高校受験を控えた身として、2度の入院はかなり学力に後れを取ってしまう結果となってしまい、特に数学は何をやっているのかすら分からず、計算問題のみで点を取るということしか出来ない状態でした。

全校生300人ほどで、いつも大体100位以内にはいたのですが、3年生のころには140位前後まで落ちてしまいました。

自身はそんなに気にしてなかったのですが、テストの結果が出るたびに父親の前に正座をさせられ、各教科の点数を見ながら点の取れなかった要因を父に説明しないといけない地獄の時間があったため、落ちていくたびに自身がどんどん萎縮していくのが分かりましたし、残りの中学校生活は悪循環をひたすら繰り返すこととなりました。

 

 この記事を書いていて思ったことは、周りと溶け込むのが苦手な自身が学校での集団生活を送るのも苦痛な中、家では父にひたすら勉強勉強と言われ続け、逃げ場のない自分がどんどん追い込まれ病気になってしまうという悪循環を繰り返していた結果だなと感じます。

家を飛び出す勇気や、グレる勇気も無かったですしね…。

 

私の場合だと息子が13才の時にはすでに63才…。

間違いなくグレてしまえば簡単に打ちのめされる年齢ですね…。

私の父親は私が13才の時に何と38才!

脂がのった年代だ…。

 

息子が私の年齢に達した時に私は間違いなくこの世にいません(医療の発達で生命維持装置で生きてる100才はいやだなと思いますが、約50年後はどうなんでしょうね)。

まだまだ言葉も話せない1才8ヶ月の息子ですが、話せるようになったらたくさんたくさん話を聞いて上げたいと考えています!

 

息子が大きくなった時に私の人生に触れてくれる機会を作りたく、過去の記憶がある今のうちにブログに書き留めると決めました。

これからも正直に私が歩んできた人生をアップし続けていきます。

 

本日も長い文章にお付き合いいただきありがとうございました!

 

 

 

 

 

 

 

THE・引越し貧乏!

 いつも引越しばかりをしています。

引越しはそれなりに気力・体力・精神力等を使い、ほどほどの引越しであれば環境の変化を楽しみ、新たな生活に胸を躍らせることも出来そうですが、私の場合は回数が異常です。

 

 今の妻と出会ったのが2014年

当時私はひとり暮らしで妻は実家暮らし。

翌年の2015年に同棲を始めるため、ひとり住まいのアパートから広めの部屋に引越し。

その後、私が勤めていた会社がどうもあやしい雰囲気だったこともあり、2016年に現在の妻と結婚したことを機に同業他社に転職して異動で引越し。

ただその同業他社がパワハラの温床のような会社で、研修期間はとても良い人に恵まれたもの、配属先では直属の上司が挨拶さえしてくれない始末。

挙句の果ては何も業務について教えてもくれず、ただただ単純作業の繰り返し。

せっかく転職したのだからと頑張っていたものの、上司から仕事が出来ない出来ないとしつこく言われ、こちらが「では新しい業務を教えてください」とお願いするも、まだ早いの繰り返しで何も進展せず。

隣接県で新規事業所の立ち上げがあるというのでそこに応援として行く機会があり、少しは気晴らしになるなと片道1時間30分以上かけて通勤するも、そこの上司が自身の上司に輪をかけてひどい人間…。恒例となった基本の挨拶はもちろん無く、いつも仏頂面でご機嫌斜め、だからこちらが何か困って話かけても無視(たまに答えてくれても「あぁ」と威嚇するのみ)。

研修先が良かっただけに期待は高まっていたものの、着任先の上司はすべて✖。

入社して半年を迎える月には精神状態を保つことが出来なくなり本社に相談

相談した相手が、自身の直属の上司の先輩だったのが終わりの始まり

まったく本気にされず(自身の上司は上司先輩の前では猫なで声で甘えまくるタイプ)、話は堂々巡り。

結局自身で退職届を出す結果に…。

当時妻と一緒に暮らしていた賃貸マンションは会社の借り上げ社宅で、そのまま住むことが出来なくなるためあわてて職探しに。

自宅が無い状況で仕事を探すのが難しく、そこで考えたのが住み込みでの仕事でした。

運よく大学の寮に住み込む寮長の仕事が決まり、また引越し

ただその生活も長続きせず…。

 

1年近く経ったある日妻が泣いており、「どうしたの?」と聞くと「学生さんはいい人だけど生活にプライバシーがないのが辛い」と。

確かに学生さんといえど私は親子ほど年が離れているが、妻は私より学生さんのほうが年が近い(それは確かに落ち着かないなと)。

最初はまた転職と引越しかとも思ったが、妻にしてみれば私の前職の自主退職で受けた巻き込まれ事故と一緒だなと思い、新たな職探しを始めました。

ちょうどそこに前職の研修先でお世話になった人から連絡が入り、「今どうしてますか?」と聞かれ「こうこうこうで、また新たに職を探しているんですよ」と事情を話すと、何と!「僕も前の会社を辞めたんです」との返事。さらにその元同僚が、「僕の転職先に就職しませんか?」と言うではないですか⁉

まさに渡りに船とはこのことか!と

ただ同僚は私より10才以上年下で、その時私はすでに48才。

「50才近い人間を雇ってくれますかね」と話すも、「〇〇さんは経験者だから大丈夫だと思いますよ」という返事。

「ではぜひお願いします」と!

その後面接を2回重ね、不安は募りつつも無事就職先決定!となりました。

その元同僚とは部署が変わりましたが、私は今もその会社に勤務していますし、その時は元で現同僚にとても感謝しておりますし、部署が変わってからも連絡を取り合っています。

同僚の人柄なのか、同僚が太鼓判を押してくれた今の会社は、同僚と同じく非常に優しい人が多い会社です。

ご縁て大事だなとつくづく感じました。

 

 話は戻って引越しですが、今の会社に入り最初の赴任先が大学の寮から約500キロ離れたところでした。

中途採用のため、着任のための引越し代金は自己負担で約60万円(泣)ほどかかりました…。

その着任先の町は初めてだったことと、物件を探す時間があまりなかったことも重なり、その町の主要駅から徒歩3分ほどの物件に住みました。

家賃は高かったのですが、不慣れな土地で時間配分がつかめなかったこと、そこを踏まえ会社まで徒歩で行ける環境、今のように子供ががいるわけでもなく妻がパートを探すにも町の中のほうが便利だろうと色々鑑み、少し高いかなと感じつつその物件を契約するに至りました。

ただそこからまさかの展開です!

引っ越して3ヶ月経ち、妻もその土地に多少馴染んできたことで職探しを始め、その後パート先も無事決まり、さあ出勤だと行ったのですが、身体の変化に気づき妊娠検査薬で調べたところ、まさかの陽性!

それから病院へ行き、正式にご懐妊!!となりました。

妊婦さんはパートでは雇えないとパート先の責任者に言われ、妻は結局退職…。

私も妻も予想だにしておらず、最初は正直実感が湧いてこなかったのは覚えています。

それから順調にお腹の中で育ち、2019年5月に無事産まれました!!

そこで計画性の無い自身に葛藤が生まれるのです…。

妻も見ず知らずの土地で子供を育てるのに不安だよなと…。

あと産まれてすぐにパートをするため保育園に預けるのも、子供の今後の育成にどうかと…(特に私は幼いころに両親が共働きでいなかったので)。

そこで現在の住まいを改めて考えると、私の給料の半分近くは家賃と光熱費で引かれてるなと…。

初子育ての2人ですし、子供にいくら位かかるか検討もつかない。

また引越しするか…。

そして結局、勤務先まで電車で30分ほどの郊外に引っ越すこととなりました。

話が長いのでお忘れかと思いますが、この時点で4年で5回目の引越しです。

 

 話はこれで終わらず、子供が生まれてから私も妻も慣れない土地で子育てをしていたこともあり、上司にもし福岡に異動出来る機会があれば異動させて下さいとお願いしていました。

するとまさかの1年後に妻の故郷である福岡に戻れることとなりましたが、またここで引越しとなり、2014年から2020年の間に6回(単純計算で1年1回ですね…)も引越しを経験することとなり今に至ります。

 

 今回は会社経費で引越しでしたが、引越しすると皆様ご存知かと思いますが、何かとお金がかかります。

エアコンの有無、都市ガスかプロパンかによるガスコンロ代金、照明やカーテン、敷物等の新たに購入する消耗品類etc…。

引越しばかりの6年間でしたので、さすがに今回は長く住むぞと思っていましたが、昨年から今も続くコロナウイルスの影響で会社の業績も大打撃を受け、私自身年収ベースで70万以上減りました…。

昨年は休業になることも多く、また家賃と光熱費の負担が厳しい時の水準に戻ってきている今日この頃です。

 

 また引越しか…。

心の声が私を呼びます。

 

本日も長い文章にお付き合いいただきありがとうございました!