根暗の夢は大きい!?最終話(役者に向けて再始動)
地元から再び東京に出た私は、まず住まいを決めるところから始めます。
少し話は遡って高校2年生の時でした。
夏期講習を受けるために東京の予備校へ夏休みの間に行く機会を祖母が設けてくれ、その時に泊まったビジネスホテルが渋谷区の幡ヶ谷にありました。
その後、新聞販売店に行った時もなぜかひとつ横の初台にあり、何かと縁を感じたのと土地勘があったこともあり、再上京した時も幡ヶ谷で物件探しをしました。
もちろん風呂付など探せる余裕も無かったので、当時商店街にあったお米屋さん(昔はお米屋さんが不動産業を営んでいたところが多かった気がします)の紹介で、幡ヶ谷駅から徒歩15分ほどの1Kを契約しました。
以前よりはグレードアップし、鉄筋の1Kで6帖とキッチン3帖ほどでトイレのみ付いており、家賃は管理費込みの38,000円でした。
ただそこの大家さんに直接家賃を持っていくのですが、毎月1,000円キャッシュバックしてくれる大変優しい大家さんでした。
その大家さんはご高齢だった事もあり、大家さんが6年後にお亡くなりになられるのですが、それまで私はそこにお世話になりました。
さあこれからどうしよう…。
まずは仕事を見つけないとな。
当時、高校の同級生が専門学校に通っていたのですが、彼がひとつ横の笹塚の便利屋でアルバイトをしていると聞き、彼の紹介で便利屋で私も働かせてもらうこととなり、今でも覚えておりますが、一番最初の仕事は当時原宿の表参道にあった同潤会アパートの草刈りで、今は道交法上無理でしょうがみんなでトラックの荷台に乗り、THE東京という景色を眺めながらこれから先の事にワクワクした気持ちで臨んでいた記憶が残っております。
私が再度上京したのが1990年で、東京はまだまだバブル感満載の時代でした。
便利屋の仕事も今となっては考えられないくらい仕事が多く、オフィスの棚のいくつかを縦から横に変えるだけの仕事、幕張まで行きタレ幕を吊るすのに金具に幕を付けるために5秒ほど持つ仕事(周りにいる誰かに頼めるレベルですよね…)、一般家庭に脚立を持っていき電球を替えるだけの仕事等、めちゃくちゃバブルの恩恵を受けた訳ではないですが、若い私の心の中は「世の中楽勝だな」という気持ちでした。
役者を目指すことよりも、楽な暮らしが染みついた私でしたが、あるきっかけで役者になるチャンスが訪れます。
当時の便利屋に下北沢で定期的に舞台公演を行っている先輩がおり、その先輩から「おまえ役者を目指しているんでしょ?」「この先どうすんの?」と聞かれ、何も答えられなかった私に「大人計画って劇団があるんだけど、お前入りたいなら紹介するよ」と言われ、聞いた事もないけどお願いしようかと思ったのですが、当時の大人計画はまだまだ無名だった事もあり、先輩曰く「チケットをさばくノルマは多分あるよ」と言われ、根底が根暗で人見知りの私としては心の中で「知り合いいないし、色々無理かぁ」という気持ちが勝ってしまいました。
今考えると大人気劇団の創成期に関われるなんて幸せな事では無いかと、たまに思い返しますが、それが私の人生だったし、運命なのでしょうね。
結局、その先輩から笹塚駅の近くにある小さな芸能プロダクションを紹介してもらい、20才の私は夢を膨らませるのでした。
次回より役者編にて記事を投稿致します。
本日も長い文章にお付き合いいただきありがとうございました!