ある男の幸せ追及と子育て日記

元役者で転職15回、結婚4回、50歳を過ぎて初子育てと、何かと波乱万丈な人生を歩んでいます。子育てや所感を中心に人生の幸せを追求していきます!

根暗の夢は大きい!?③

 さて前回お話しした続きですが、弟のドラム熱は冷めることなく、大学進学後も軽音楽部に入部したい気持ちのほうが強く、県でトップの公立高校を卒業したのですが、選んだ大学は、推薦入試の日程が一番早い大学を選択しました。

当時私も弟に「他も十分に受かるのにもったいない」と進言しましたが、こうと決めたらテコでも動かない性格だったため、そのままその大学に入学しました。

大学入学式時にその日のうちに入部の意思を先輩に伝え決めたそうです(私と違って積極的なところが羨ましい)。

大学ではドラムの需要がかなり多く(確かにドラムを叩ける環境ってなかなか難しいですよね。私の実家の隣が材木屋さんだったので、日中は材木を切る音がかなり大きく、ドラムを叩いても平気な環境でした)それから色々なバンドを掛け持ち、ライブハウス等にも出演したようで、後々プロデビューを果たすこととなるのですが、そのプロデビューのきっかけになったインディーズバンドとの出会いがあったそうです。

当時のボーカルの方が弟が演奏しているのを見てスカウトしたそうです。

バンドメンバーの大半はすべて弟よりも年上で、当時はインディーズ活動していてそこそこファンもおりプロデビューを目指していたようですが、ライブハウスで演奏をしている際にあるプロデューサー(かなり有名なバンドのプロデューサーですが伏せさせていただきます)の目に留まり、運良く弟は大学卒業と同時のタイミングにてプロデビューを果たしました。

余談ですが、大学の先生から「こんなに優ばかりの成績なのにもったいないと」と親は言われたようですが(何か私と弟の父の対応の違いも気になりますね)。

バンド自体はファンも多く、深夜番組のオープニングやエンディングにも楽曲が使われたいたのですが、事務所の目標であるオリコンチャートになかなか入らず、約3年ほどでバンドは解散となりました。

その後、弟にはスタジオミュージシャンの話もあったようですが、ボーカルの方にかなり心酔しており、他のバンドではプロ活動はしたくないとのことで、解散と同時にプロミュージシャンの道を断ちました。

ただ現在もマチュアで複数のバンドを掛け持ちながら、趣味としてドラム演奏に励んでおります(趣味だと思い切り楽しめるそうです)。

 

 ここで言いたいのは、祖父、父、私、弟と何となく出だしは順調に行きそうなのに、結果として夢叶わぬ家系ですよね…(まあ叶う確率が低いものばかりですし、その道を経験出来ただけ良いのかもしれませんが)。

 

 ここで私の役者人生についても触れたいと思います。

その前に経緯の説明を致します。

 

 私は役者を目指すため18才で上京しました。

当時父は大学には必ず行けと言っておりましたが、私が行きたかった大学が日大の芸術学部や早稲田の第一文学部の演劇専修等すべて演劇に関わる学部だったため、父からは「高い金払ってそんな役にも立たねぇ学部に行ってどうすんだよ!」とかなり叱責されたため、半ば諦めていました。

百歩譲って映画や演劇の専門学校への進学の話もしましたが、同じ理由でそれも見事に却下されました。

私自身、高校時代はランクを落として入学したこともあり、高校2年と高校3年の間はずっとクラスで1位で、全体でも最高が3位で平均は10位ほどの成績でした。

偏差値自体は早稲田には足りなかったものの、それなりに良かったので、出来れば日芸(ただ倍率が尋常ではなかったので、偏差値が足りていても落ちる可能性は高いですが)に入学する事が当時の目標でした。

そういった中、何とか家を抜け出したい気持ちがあり、自身の力で予備校に通うからと親に伝え(本当はいち早く東京に出たかったのですが)、新聞販売所の住込み求人に応募しました。

上京して最初の自分の城はわずか3帖の共同トイレという環境でしたが、夢があったので当時は何とも思わず非常にワクワクしていた記憶が残ってます。

当時の販売店仲間も非常にいい人揃いで、あれから34年経ちますがその中のひとりはいまだに親交があります。

結局予備校へはまともに通わず、毎日自由を謳歌しており、翌年形だけ受験しましたが、当時は倍率が40倍50倍は当たり前の世界で、ひどいところですと100倍超えもありました。

真面目に受験に取り組まない自身に受験の神様が微笑んでくれるわけあるわけもなく、受験は全敗に終わりました。

 

 新聞販売店を退所後は4帖半風呂なしトイレ共同に引越しましたが、怒った父から当時実家に連れ戻されました。

連れ戻されたあとは強制的に地元の予備校に通わされましたが、働いて収入を得て楽しむことを覚えた私にその生活は耐えきれず、途中地元の大学生の友人の紹介でアルバイトを始めました。

そこで唯一良かったことは、車好きの私がその期間で免許を取得出来たことでした。

 

 結局、またまた翌年受験はものの見事に惨敗(当たり前ですね)。

2浪したあげく、どこにも受からず、ただただ途方に暮れるばかり。

 

その瞬間、またまた気持ちは東京へ傾くのでありました!

長くなったので次回またお話できればと思います。

 

本日も長い文章にお付き合いいただきありがとうございました!