ある男の幸せ追及と子育て日記

元役者で転職15回、結婚4回、50歳を過ぎて初子育てと、何かと波乱万丈な人生を歩んでいます。子育てや所感を中心に人生の幸せを追求していきます!

子どもは哲学者!?

※頭を掻きながら川の流れをただただ眺める息子(3歳の頭の中で何を思っているのか気になります)。

ちょっと前までとは違い、私が通勤している博多駅も連日キャリーバッグを持った多くの観光客で賑わいを見せております。

私は宿泊業界にいながらも「全国旅行支援」には反対派なのですが、本社は宿泊客が増えて一安心しているようです。

 

落ち着いて旅行に行きたい方であれば、「全国旅行支援」後がいいと思います。

宿泊施設も急激な予約の落ち込みを懸念して、クーポンの配布こそありませんが宿泊代金をかなり抑えてくるので、トータルでみればその方がお得だと思います。

 

さて、余談はさておき今回の話に移ります。

 

私は休日ともなれば、妻の余暇を確保するために3歳の息子と2人でお出かけするのですが、最近その時にかなりプレッシャーを感じる場面に出くわします。

 

それは何かと言えば、息子の「質問攻め」です。

 

例えば散歩の時。

息子「ねーねー。これ見て見て!」

私「うん?何?」

息子「これなーに?」

私「黄色いお花だねぇ」

息子「・・・。なーに?」

私「小さい黄色いお花だね、、、」

息子「うーん。ちがう!」

私「いやいや。小さいお花だよ、黄色の」

息子「・・・」

これは何かと言いますと、要はきちんとした名称を息子としては聞きたいのです。

 

例えば

息子「パパー、パパー。ねぇねぇこれ見て」

私「うん?どれ?」

息子「これー」

私「あー。電柱ね」

息子「あ。でんちゅうかぁー」

私「そう。電柱」

息子「そうか!でんちゅうかー」

と、さっきと違い納得してくれるのです。

 

私も53年間生きてきましたし、大抵の物の名称は分かるつもりでいましたが、息子の質問は多岐にわたるため、花や虫、木や草の細かい名称まではよほどメジャーではない限りさすがに知りません。

 

先ほどの電柱にしても、電柱から出ている電柱を上るために手や足をかけるところの名称とか(笑)。

 

とにかく息子はすべての物の名称を聞いてきますから、私は自分の「無知」さにただただ落ち込むこともしばしばあります。

息子も息子できちんとした名称で伝えないとすぐに「ちがーう!」と言います。

だから私が「電柱から出ている棒じゃない?」なんて自信無く言えば、

「うーーん。ちがーう!!」と私の表情を見て「ダメ出し」してきます(汗)。

 

自信の無さが息子に波動として伝わるんでしょうね。

 

ちなみに先ほどの電柱から出ている棒ですが、正しくは「足場釘もしくは足場ボルト」と言うようです。

 

確かにこの世の中にある物の名前は大抵知っていると思い、普通に暮らしていた私からすれば、息子の質問は恐怖でしかありません(まぁ恐怖はあくまで冗談ですが、焦りはあります)。

生きていて何気に目にはするけど、細かい部分の名称までは皆さんもあまり気にしないかと思います。

 

現在、言葉の吸収力が絶好調の息子。

とにかく目についた物を「あれ?これは名前が分からないぞ。これは何だ?」と感じるのでしょうね。

 

なのでいつも「これなーに?」の連続です。

以前「興味は未来への活力!」という記事を投稿したので、それはそれで非常にありがたいのですが。

 

tyusen-yo.hatenablog.com

 

 

そんな恐怖のやり取りを息子としていて私は思いました。

 

これは「哲学の父」ソクラテスではないかと。

ご存知の方も多いかと思いますが、ソクラテスは「問答法」というやり方でとにかく人に対して質問を繰り返した哲学者です。

息子も素直な気持ちで私に質問を繰り返してきますが、ソクラテスも「自分は何も知らない」というスタンスで人を質問攻めにし、そして新しいことをどんどん吸収していきます。

その結果、自分が他の人よりも賢くなれると。

 

まさしくソクラテスが行った「不知の自覚」を私はひしひしと感じてしまいました。

「知ったかぶりじゃないのか俺は。本当に何を見て生きてきたんだろうなぁ」と。

 

でもその息子の質問攻めのおかげで私に新たな「単語」が刻まれる機会も増えました。

先ほどの「足場釘」のように。

 

以前も書きましたが、「親は子どもの成長を手助けする」という見返りに「子どもが親を人として新たに成長させてくれる」

まさしく成長させてもらっています(笑)。

 

私も私で息子に「パパは何でも知っている」って思われたいですしね。

 

そういったこともあり、最近は少しずつですがあらゆるジャンルの「図鑑」を買い揃えだしました。

息子のためというより、今は私のためにと言った方が正しいですが(笑)。

 

「人生は学びの連続」なんて言われますが、まさしくその通りです。

 

「さぁ、また仕事に子育て、そして勉学にも励まなきゃ!」

 

最後までご覧いただきありがとうございました!

 

 

 

 

愛情を注ぎ続ける難しさ

※コスモス畑でテンションが上がる息子。

今年も残すところあと2ヶ月弱。

朝晩はだいぶ冷えてきて冬がそこまで近づいている気配を感じますね。

先週の休みは妻と息子と、今年5回目の庭の草取りをやりました。

広い庭で気の流れがいいのか、木々や草も元気いっぱいで、カマキリ、てんとう虫、黄金虫、蜂、蝶、ミミズなど見ない虫はいないほど賑やかな庭です(あくまで賃貸の戸建てですが)。

ただ草取りはかなり体力を使いますし、今年最後と願いたいですね。

 

さて我が家の息子ですが、最近はありとあらゆることに興味を持って日々を過ごしているので、平日妻は息子の遊びにかなり振り回されております。

朝6時に起床したかと思えば、すぐさま鉄道模型と線路を出して組み立て。

ひとしきり遊んだかと思えば、その後はアイスクリーム屋さんごっこ

次に自動販売機のおもちゃで飲み物を買い、それを各ぬいぐるみに飲ませてあげる遊び。

それからおもちゃの包丁とまな板で料理ごっこ(もちろん食べる役は妻がやらされます)。

次に庭へ移動して砂遊びや水遊び。

そして虫探し。

このようにどんどん遊びを変化させていきます。

 

もちろん遊び終わったら片付ける習慣なんてまだありませんから、気づけば家の部屋はあちらこちらで大変な状態になっています。

妻が掃除機をかけようと息子に「お片付けしようか?」と言えば息子は「イヤ!イヤ!」と言い、もうすでに遊んでいなかったおもちゃを手に取り遊び始めます。

 

妻が別のおもちゃを片付けようとすれば「イーッヤッ!!まだあそぶー」と言って、片づけの邪魔をします。

 

私も週に1度だけ在宅勤務があるので、平日に別の部屋で仕事をしているのですが、たまに息子が妻に対して抗う声が聞こえてきます。

「あれ?何か様子がおかしいな?」と感じた時は妻と息子がいる部屋に行くのですが、そこで最初に目にするのはまるで夫婦喧嘩をしたような二人の光景です。

お互いが背中合わせの状態で座っており、妻も息子もムスッとしています(笑)

 

「どうしたの?」と息子に声をかけると、即座に息子は私に近寄ってきて抱っこをせがみます。

そして思いっきり密着してきて私に甘えて離れません。

妻に「何かあったの?」と言うと、妻は「ちょっと喧嘩になっただけ。だって私が片付けたいのに全部拒否するんだもん」と言います。

 

そして私は息子を抱っこしながら「〇〇(息子の名前)ママは掃除したいんだって、お片付けしようか?」と言うと、小さく頷いてくれるのですが妻としては納得出来ません。

私が息子と会話をする時は息子に全力で向き合いますが、私と違い毎日朝から晩まで息子と向き合う妻に、私と同じように全力でというのはあまりに酷です。

そんなことをしていたら妻の精神状態は確実に崩れていくと思います。

 

息子も息子で、妻に対して執拗に「かまって攻撃」を続けます。

それにはその原因があり、妻が「から返事」しているのに息子は気づいているからです。

妻と息子が会話(まだまだ成立はしていませんが)している時に良く見かける光景ですが、息子が「ママー、〇〇だよ!」と言えば、妻は本やスマホを見ながら「あー、そうねー」と言っています。

真剣な雰囲気の無い返事の妻に対して息子は、本やスマホを妻から取り上げます。

 

息子としては聞いて欲しくて話しているのに、妻が真剣に聞いてくれないことが腹立たしいんでしょうね。

 

常に子どもときちんと向き合う。

そりゃ理想ですが、なかなか思うようにいかないのが子育てです。

 

なので最近の息子は妻が適当に返事をすると、「またそれか!」と言わんばかりに妻をポカポカと両拳で叩きます。

私がその場に居合わせた時は息子を抱っこして「ママ、いたいいたいってよ」と言い、ぎゅっと息子を抱きしめます。

すると息子は少し涙を浮かべながら私にギュッーと力を入れてきます。

 

たたただ「かまってほしい」が原因なんですけどね。

ただ妻もやることもありますし、そりゃ息抜きもしたいですし、そこはなかなか難しいところです。

 

幼い頃に愛情をきちんと受けていないと成長してから何かと心に問題が出るといいます。

でも年がら年中愛情を注ぎ続けるって、簡単なようで非常に難しいことですよね。

 

親も人間です。

毎日毎日「心も身体も万全」なんてことはありません。

あまり体調が優れない日に、テンションが高い子どもの相手は本当に大変です。

 

私は厳しい父の顔色ばかりをいつも伺って生活していた子だったので、息子が幼い間は絶対に怒鳴らないと決めました。

自分で決心しましたからたまにイラッとくることがあっても、必ず一呼吸置いて息子に向き合いますし、話しかけられたら何かやっていても「ながら返事」はせず、手を止めて息子の目をきちんと見て「何?どうしたの?」と言います。

すると息子はうれしそうにつたない言葉で一所懸命に私に話します。

 

ただそれは平日の夜数時間と、休日のみだからなせる業であって、妻のようにずっと息子と過ごす状況であれば、私も妻のようにたまに怒鳴ってしまうかもしれません。

 

最近は以前よりも語彙が増えてきて、私たちにどんどん話しかけてくる息子。

まだまだ意味が?っていうところも多いですが、息子なりに一所懸命にコミュニケーションを取ろうって姿勢は非常に喜ばしいことです。

 

何か新しい物を見れば「ねー、これ何?これ何?」と物の名称を必ず聞いてきます。

その都度「これは〇〇だよ」と話せば、「へー〇〇ね」と言っています。

まだまだうろ覚えなところはありますが、目にした物の名称が知りたいって気持ちが私はうれしいです。

 

かわいい息子ですから、息子に対しての愛情はもちろんあります。

ただ大人になればやらなければいけない事があり、そのやらなきゃいけない事に追われる時もしばしばあります。

息子が話したいタイミング、息子が遊びたいタイミング、忙しい時にそのタイミングが来るといつも頭をよぎる言葉があります。

「パパが何もしないで生きていけるなら、いつも全力で向き合うのにね」です。

 

まぁ資産家でも大富豪でもない私。

同年代ではかなり低年収の私ですが、気持ちだけでも資産家や大富豪気分のちょっとやそっとじゃ簡単に動じない心で、今後も子育てしていきたいと思った私でした。

 

最後に余談ですが、よく書店で見かける「50代からの〜」みたいな本がありますが、大抵は「子育てもひと段落し〜」のような始まりが多く、50歳で息子が生まれた私には全く参考になりません(笑)

 

来年から幼稚園、そのあと小学校と、まだまだ道のりは長いですが、このタイミングで私のところに来てくれた息子。

何かしら意味があると思い、頑張っていきたいなと思います。

 

最後までご覧いただきありがとうございました!

 

 

 

 

子どもだからといって

ハロウィーン仕様の電車にご満悦(私の時代はハロウィーンなんてなかったですが)

10月に入りました。

今年も残り1/4です。

毎年毎年早い気がしていますが、年齢のせいなんでしょうかね。

 

9月は連休が多く、私は相変わらず愛息子とお出かけする休日を過ごしていました。

天候に恵まれなかったので、お出かけするにも「どうしようかな?」の連続だったのですが、雨だと結局ショッピングセンターやホームセンターといった定番スポットになります。

息子が沢山の商品が置いてあるショッピングセンターが大好きで、お店の中をブラブラ徘徊しながら気になった物があればそれを手に取り、見てからまた戻しての繰り返しです。

 

ショッピングセンターは老若男女問わず多くの人が集う場所です。

私は息子に付き合いながら世間様の様子を傍観してお店を歩き回ります。

 

すると中には自分の子どもに対して怒りをあらわにして、公衆の面前にも関わらずに怒号を放つ親御さんもちょくちょく目にします。

 

正直他人のお子さんですが、見ていて気持ちのいいものではありません。

 

もちろん怒るには怒る理由があっての事かと思いますが、もう少し冷静に叱る行為をして欲しいなと私は感じます。

子育てというものは確かに神経を使いますし、精神的にも体力的にもかなりの労力が必要です。

公衆の面前でわめくくらい、我を忘れて溜まっていたフラストレーションを一気に吐き出しているのかもしれません。

 

もちろん私はその方のバックグラウンドを知らないですし、その方なりの教育方針と言えばそれまでなのですが、あからさまに怒りをあらわにする親御さんに対して私は違和感を覚えます。

 

それはなぜかと考えた時、そこに子どもの人格はなく、あくまで自身の所有物のような感覚に陥るからです。

ペットなら躾はお互いの信頼関係で成り立ちます。

ただ、子どもの躾はあくまでお互いの信頼関係にプラスして、どうしてその行為(行動)に出たのかを、きちんと確認して上げるべきではないのかなと私は感じています。

 

専門家でもない私が何を偉そうなと突っ込まれるかもしれませんが、実際我が家でも似たような事例が起こりました。

 

妻と息子はしょっちゅう喧嘩するのですが、私は「似たもの同士だからかなぁ」程度に初めは思っていました。

私は今まで3歳の息子と喧嘩になったことはなく、最初は妻と私の違いに気づきませんでした。

 

ある日妻が「今日も喧嘩したー」と私に言ってきました。

理由は息子にズボンをはかそうとしたら息子が「イーヤッ!」と言ったことで始まったそうです。

その時妻は「はかないならもういい!」と息子を怒ったそうです。

息子はその妻の言動に腹を立て、地団駄を踏みながら「イヤ!イヤ!イーヤッ!」と言い返したそうです。

妻は「もう知らない!」と言うと、息子は怒りが収まらず物に当たっていたようです。

 

そして別な日また妻が言ってきます。

「この前〇〇(私)を見ていて思ったんだけど、私の言い方が〇〇(息子)を怒らせているのかも」と言ってきました。

私は「え?何か俺の言い方違っていた?」と聞くと。

「〇〇(息子)が嫌がる時に〇〇(私)はいやなのー?どうしてなのー?じゃ〇〇(息子)はどうしたいのー?今ははきたくないのー?と冗談交じりできちんと聞いてあげているでしょ」と言ってきます。

 

私は特に意識もせず、息子の見解を知りたくて問いかけていただけなのですが、そのワンクッションが息子の自尊心を満足させているようです。

だから息子は私の言うことには素直に耳を傾けるのだと。

 

私の幼い頃の場合、父親が絶対的存在でした。

私にいつも選択肢は無く、父が言う通りにしないといけない生活が親元を離れるまで続きました。

そんな思いもあってか、私は自然と息子に対して息子の気持ちを尊重する聞き方をしていたのかもしれません。

一人前ではなくとも子どもも人間ですし、それなりに自我が出てきて人格もあります。

 

子どもは親の所有物でもないですし、その成長度合いに合わせた子どもとのコミュニケーションが後々良い信頼関係を構築出来ると私は思っています。

子どもからしたら「親は自分を愛してくれていて当たり前」という揺るぎない自信の中で生活しています。

その自信があるから思いっきり行動出来るんです。

 

そして以前もお話しましたが、子どもは親の波動を敏感に察知します。

 

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自分が不機嫌でいればその相乗効果で子どもも荒れてきます。

だから荒れれば荒れるだけ収束は見えてきません。

精神的に疲れていると、難しいのは難しいですが、そこは「大人の対応」が必要なポイントだと感じます。

 

頭ごなしに全てを否定してしまえば、せっかく色々と成長しかけた芽をつぶしてしまうような気がしてなりません。

実際私がそうでした。

いつも頭ごなしに否定され、どんどん萎縮した子どもとなり成長していきました。

結果、小学校時代の記憶がほとんどないほどに(生きるために自分自身で消してしまったんだと思います)。

 

私自身も若い頃は正直父親を憎みましたが、父親になった今ではその憎しみも消えたとまではいきませんが、だいぶ和らいできました。

当時25歳で私が生まれた父。

若い頃って体力はありますが、なかなか自身を俯瞰で見られないんですよね。

もちろん人によっては若くてもしっかりされた方もおりますが、私も父の血を受け継いでいるのならば、その年齢で子を授かっていたら同じ轍を踏んでいたかもしれません。

 

若い人に比べたら私は体力的には圧倒的に負けるかと思いますが、52年間生きてきて色々と「生きる術」を学んできた歴史があります。

その心の余裕が息子に対し包容力となっているのだと自負しております。

 

どうしても親の都合優先で子育てをしがちですが、子どもは子どもで自分の意思があり自身の思うように事を進めていきたいところがあります。

基本的に私は争いごとを好まないため、公園に行った時に別の家族が遊具を使用していた際は、あえてそこに行かないよう息子に仕向けていました。

でも息子は「おともだち」がやっているからやりたくなるし、そのコミュニティにあえて参加したいのです。

 

以前は何かとごまかし避けていましたが、最近では息子が行きたいなら行かすようにしています。

そうすると息子の満足度は急上昇しますし、社会活動を目の当たりにして息子なりに色々学んでいくのだと思います。

 

「人見知り」の親に対し、「積極性」のある息子。

大袈裟かもしれませんが、息子から私に対する「人っていいものだよ!」というメッセージのような気がします。

実際、混じってみると良いパパさんママさんに会う機会も多いです。

ただ、明らかに私より若いパパさんママさんなので恥ずかしいのは恥ずかしいですが。

 

今はまだ会話が全て成立しない息子ですが、これからどんどん成長して会話のキャッチボールが出来るようになる日を楽しみに過ごしております。

 

親が子を養い、その子の人格形成の手助けをしていくのは当たり前。

それを何か商売のように対価を求めているから関係性がおかしくなるのではないでしょうか。

「大人になんかなりたくない」という表現が世の中に多いですが、全てそこを作る原因も「大人」なんです。

 

よくドラマや映画で大金持ちの子が幼い頃に、子育てを外注されて育ち、大人になってから性格が歪んでしまっていた話が多いですが、やはり親の愛情が希薄だと、その子の人格形成に影響を及ぼすのはあながち間違いでも無いような気がします。

 

子どもの頃いつも機嫌が悪い父親を見て「サラリーマンには絶対なりたくない!」と思ったのが役者を志すきっかけのひとつでした。

子どもながらに「サラリーマンっていやなおしごとなんだ」と、父を見て感じていたんだと思います。

自営業者の方でも「子どもが跡を継いでくれない」と嘆く方も、それはそれで親の背中の見せ方次第だと思います。

 

要はお子さんの視点からすると「魅力的な親」に映らなかったのでしょう。

もし魅力的に映っていたのであれば、規模が小さかろうが大きかろうが、売上があろうが無かろうが関係なしに「自分も親のように商売人になりたい!」と思ったはずなんです。

 

子どもの自我が出始めるのも「ひとりの人間」への第一歩です。

そこで格好いいパパ、素敵なママと感じさせるのも我々の行動次第だと思います。

 

やりたくもない習い事を強制させたり、無理やり勉強させて進学校への進学を強制させたり。

そこにその子の人権はなく、親の自己満足です。

もちろん好きでやっているのならば別ですが。

 

親に強制され「こうすればママが笑ってくれる」「こうすれば大人が喜んでくれる」

そんな子ども時代を過ごすと、いつも周囲の目ばかりを気にした大人にしかなれません。

そこに「自分自身」がいつもいない人間です。

それについても実際私がそうでした。

だから私は息子には「息子の息子としての在り方」を確立して欲しいと願っています。

 

まず自分が幸せではないと周りも幸せになんて出来ません。

自己愛こそが幸せの第一歩ですし、そこを上手に形成させるのが親の役目だと感じています。

他人軸の幸せばかりを気にしていたら、自分自身に幸せは巡ってこないということを年を重ねてからようやく気づいた私。

そのくらい「自己肯定感」は大事です。

 

きちんとその子のビジョンなり考え方を汲んであげなければ、それはただの主従関係で、健全な親子関係では無いと私は思っています。

 

息子が大人への階段を進む時に、私は黒子のようにさりげなくアシストしていきたいです。

 

最後までご覧いただきありがとうございました!

 

 

 

 

 

子どもの成長記録残していますか?

※我が家に来て約3ヶ月経った頃の息子。私の指を小さな手でギュッと握ってくれた時は感動しました!

朝方は一時期に比べて気温も下がりだいぶ涼しくなってきましたが、昼間はまだ汗ばむほどの陽気なので秋の雰囲気は感じにくいですが、暦の上では秋になりましたね。

 

秋から連想する言葉のひとつに「秋の夜長」があります。

そんな「秋の夜長」。

虫の音を聞きながら読書にふけるも良し、趣味に没頭するも良しと色々な楽しみ方があるかと思います。

 

そんな私は「秋の夜長」に限らずとも、夜に密かな楽しみがあります。

 

それは息子が誕生してから今までの写真や映像を改めて見ることです。

特に休みの前の日などは時間を忘れるほどにじっくりと見ており、愛して止まない息子のかわいさの原点を再発見しています(親バカですが、かわいいものはかわいいんです)。

 

現在まもなく3歳3ヶ月。

本当にあっという間に大きくなりました。

特に病気もせず、すくすくと成長してくれている息子。

それだけでも十分ありがたいことです。

 

そんな息子ですが、わずか3年前の写真は紛れもなく「赤ちゃん」です。

当たり前かと思いますが、私が3年前の写真とは大違いです。

子どもはそれくらいの勢いで成長するんです。

 

その赤ちゃんだった息子も今は104㎝で体重が17kg、靴の大きさは17.5㎝と、年々大きくなり、去年買った服も靴も入らなくなっています、、、。

そんな急成長するこの時期だからこそ、成長の記録はかなり重要だと感じている今日この頃です。

 

何でそんなことを思ったのかと言いますと、静止画である写真は大量にあるのに、それに反して動いている動画の映像が少ない(泣)

ビデオカメラで撮影していないというのが一番の原因で、ついついスマホの容量を気にしてしまい、映像は長くて1分ほどで、短いとなんと5秒程度 (´;ω;`)

夜ひとりで「あーもっと見たい!見たい!」と、子どものようにめちゃくちゃ悔しがっております。

 

子育てをしていると何かとあり、かなり忙しいのもありますし、赤ちゃんの頃はひとつひとつ子どもが起こす行動が非常に気になってしまい、「大丈夫か?」といちいち心配して、ただ息子をじーっと観察してしまったのも、動画が少なくなった原因のひとつかと思います。

「何で映像をもっと残さなかったんだお前は!」と、自身についつい突っ込んでおります。

 

確かに毎日の生活は「通常の日常」です。

息子が赤ちゃんの頃は「赤ちゃんの息子と暮らしている私たち夫婦の日常」です。

何が言いたいかと言いますと、その「何気ない日常」こそが、ジワジワと後から感動を覚えてくるのです。

 

ただ「あー」とか「うー」とか赤ちゃんの時は言っている息子ですが、そんな「あー」だの「うー」だの言って過ごしている時期は人生の中でもかなり短い期間です。

その短い動画を見ていても、息子の目線はあちこちを見ており、見方によってはこの生まれてきた世の中を、赤ちゃんの息子なりにじっくり見ている風にも取れます。

赤ちゃんで何も言葉を発せないからこそ、その映像の大切さが後から分かるのです。

 

息子が赤ちゃんの頃の私は「あちこち見てるなぁ」「やたら動くなぁ」等、ただただ「かわいいねぇー」と思って見ていましたが、息子が話せるようになってからの息子と、赤ちゃんで何もしゃべれない時の息子ではそのかわいさが全く違うんです。

 

「おいおいお前は何が言いたいんだ?」と突っ込まれそうですが、赤ちゃんだからこその映像を見た時に、その映像の「行間」の楽しみ方が今の息子の映像と全く違うのです。

言い方を変えれば、赤ちゃんの時の映像は「見ているものの想像をかき立てる」ものなんです。

今の息子の映像は映像でもちろんかわいいのですが、今の息子の映像は「より現実に近い映像」なのです。

さらに言えば、けっして暴言ではないですが「この世に生まれ、人間になろうとしている生命体」の映像なんです。

 

今の息子は少し話せますし、きちんと自分の足で歩きます。

あと、自我もきちんと出します。

 

赤ちゃんの頃であれば差し出した物を何の違和感も覚えもせずに、お腹が空いていれば口を「あーん」と開けて差し出された物を口にし、「ニコッ」と笑います。

今は「〇〇ちゃん、それいらない」「〇〇ちゃん、それほしいー」ときちんと個人の意思を出して、食べ物飲み物を選別します。

 

それはそれで息子が意思を持ったことに安心を覚えますが、私も私で「これは好きな物だし、今日はこれ食べるって言うだろうな」と、ある程度想像がつきます。

赤ちゃんの頃はそれが「予定調和」で終わらない流れだから余計面白いんです。

 

そんな貴重な成長過程で、「特に何も起こらないから、動画はあまり撮らなくてもいいか」と思った、当時の私を悔やんでおります。

 

「でも写真はたくさんあるんでしょ。それならいいのでは?」と思う方もいらっしゃると思いますが、写真と映像は全く別物なんです。

 

私は1969年生まれなのでもちろん写真しかありません。

当時、動画を持っていたのはかなり裕福な家庭のみでした。

 

今は誰でも気軽に映像を撮れる時代ですし、ニュースなどでも視聴者が撮影した映像が流される時代です。

ひと昔前までなら、自身が撮影した動画が全国ネットのニュースで流されるなんて想像も出来ませんでした。

そんな時代なのに愛する息子の長尺映像が全く無い私。

当たり前ですが過ぎた時間は取り戻せません。

 

お子さんが生まれた親御さんに私は強く言いたい!

「何気ない日常でもカメラを回していれば、あとから気づいたり感動する事が多いですよ!」と。

何度も言いますが、その時はその家族にとってのただの日常です。

でも、人生ってただの日常の積み重ねで出来ていますし、特に子どもの幼い時期は一瞬で終わります。

 

もちろん今の息子は息子でめちゃくちゃかわいいですし、愛情も全く変わっておりません。

その息子が自分では何も出来ない頃の映像はかなり貴重な物です。

 

ただ私は私の持つiphoneの「ストレージ容量が少なくなっています」というメッセージについつい屈してしまいました。

薄給の私にはかなり辛いメッセージです。

「月額〇〇円で、あなたの容量を増やせます!」と明るく出られても、「毎月かぁ。毎月だと辛いなぁ」としか思えません。

「お金で買えない価値がある。プライスレス」のCMではないですが、その時は目先のお金に私は屈したんです。

 

それならば、ちょっと面倒でも「PCなりSDカードなりにこまめに移せば良かったなぁ」と‘‘後の後悔先に立たず‘‘です。

 

「初めて家に来た時」「初めて沐浴した時」「初めて笑った時」等、全てが初めての場面に沢山遭遇します。

もちろん子どもが赤ちゃんの時の子育ては、特にハードなので撮影する余裕は全くないかとも思います(出産して入院していた妻を病院に迎えに行き、生まれたばかりの息子を連れて自宅に帰った時はかなり緊張しましたし、息子の一挙手一投足に敏感に反応していました)。

 

全てを初めてにこだわらなくとも、赤ちゃんの時の映像を残しておくと、あとから見直した時に色々な思いが浮かんできます。

「何気ない日常を切り取る」⇒「そういえばこの時って子育てにいつも緊張していたなぁ」⇒「そういえばこれきっかけで離乳食を食べだしたなぁ」⇒「このギャグは笑顔を引き出す鉄板ギャグだったなぁ」⇒「この頃から色々興味を持って手にしていたなぁ」⇒「この時期は夜泣きに苦労して寝かしつけ大変だったなぁ」等の思いは写真よりも映像の方が豊かに蘇ってきます。

 

藤子・F・不二雄先生のSF短編集が好きな私なのに、ヨドバ(宇宙から来たカメラのセールスマン)が売っていた商品に限りなく近づいたこの時代に、目先のお金を気にするあまり、息子の貴重な成長記録を静止画中心で残してしまった私(この例えが知っている人にしか伝わらない例えですみません)。

 

こんなことを言っているのは私だけで、大半の親御さんはしっかりと映像を残しているかもしれませんが、私のように後悔しないためにも、お子さんが生まれたばかりの方や、今から出産予定の方はぜひお子さんの成長記録をしっかりと残して下さいね!

 

普段はかなりのやんちゃぶりで、何かと振り回されて辛い思いもさせられますが、成長記録を改めて見ると生まれてきてくれた事に改めて感謝出来ますよ!!

 

最後までご覧いただきありがとうございました!

子育てはヒヤリハット活動の連続

※ミニチュアの世界をじっくり観察する息子

いよいよ9月に入り、今年も残すところ1/3ですね。

私が勤めている会社も綱渡り状態は続いておりますが、何とかギリギリ持ちこたえております。

ただ、資金繰りの為の債務が増えているのは事実ですし、まだまだ安泰とはいかない状況は続きそうですが、私は経営者でもないですし愚直に業務をこなしていこうかと思います。

 

さて今回の話は「ヒヤリハット」についてです。

すでにご存知の方も多いでしょうが、内容を簡単に説明しておきます。

 

ヒヤリハットとは

危ない事は起こったが、幸い災害には至らなかった事象のことを言います。

 

子育てをしているといつも付きまとうのは「子どもの安全確保」です。

子どもは好奇心が旺盛な分、興味があるものが目に移った瞬間に自分の欲望のままに行動します。

もちろん好奇心旺盛なのは大歓迎なのですが、あくまでそれはそれであって、親は「子どもが安心して行動出来る環境」を子どもの状況を常に見定めなければいけません。

特に我が家のようにまだ3歳になったばかりの子には、そこまでの判断能力はさすがにありません。

 

最近でもお母さんがお風呂に2歳の男の子とそのお姉ちゃんを入れ、2歳の男の子をひとり部屋に戻し、お姉ちゃんにドライヤーをかけている最中にその男の子が自分で外へ出てしまい、その後行方不明になるといういたたまれない事件がありました。

ちょっと目を離した隙にまさかの事態が起こります。

未だ見つかっておりませんが、親御さんは生きた心地が全くしないのではないでしょうか。

 

私も自分に置き換えると後悔しか浮かばないかと思います。

「どうしてあの時に目を離してしまったんだろう、、、」と。

 

私はこのブログで何度も申し上げておりますが「非常に細かいことが気になる」性分の持ち主です。

なので息子と外に出る時は特に細心の注意を払い、常に「ヒヤリハット」を意識しながら行動しております。

 

①散歩や遊びに行った時

息子が気になる景色を知り、私が改めて自然や街の風景の良さに気づかされたり、大人にとってはただの公園が子どもにとってはテンションが上がる要素が満載等、大人の私がすっかり忘れ去ってしまった思いを思い出させてくれるのが幼い息子との外出です。

その楽しく幸せな時間にもやはり危険は潜んでいます。

それは以下のような事です。

 

・普段見通しの良いところや、公園でほとんど人がいない時は自由にさせられるが、見通しの悪い交差点に差し掛かる時や、車の往来が多いところではしっかりと息子の手を握り、車が来る可能性が高い側(車道側)を必ず自分が歩く。

万が一車が突っ込んできたとしても、最悪息子だけは回避させる事が出来る。

・息子より大きな子がボール遊びなどをしている時や、自転車で走り回っている時などは息子に「あっちが楽しそうだから、あっちに行ってみようか」と言い、わざわざごちゃごちゃした場所に留まらない。

それによりボールが飛んできたり、自転車に衝突する可能性を無くす。

 

②スーパーやホームセンターの駐車場で

先日も私が良く行くスーパーの駐車場で小学生の男の子がはねられる事故がありました。

それぐらい駐車場は危険な場所だと私は常日頃から思っています。

みんながみんな運転技術に長けているわけではないですし、特に最近はミニバンやSUVブームもあり、前方後方左右の視界が悪い車が多いです。

息子のように104cmの身長では、車の近くにいるとドライバーからは全く見えませんし、誤って車の前後に立っていたのであれば、発進時や後退時にはねられてしまいます。

あと、駐車場内にも関わらず猛スピードで突進して来る車も少なくありません。

駐車場は非常に危険な場所だと私は感じております。

そこを踏まえた上で私はいつも以下のように心がけております。

 

・息子が乗る後部座席のドアはチャイルドロックをかける

そうすれば息子が自分からドアを開けて外に出ることが出来ない。

 

・息子をチャイルドシートから降ろす前に必ず私は周囲の確認を行い、車の往来が少なくなった時点で子どもの乗っている後部座席のドアを開ける。

また、駐車台数が多い場合はあえて入口から離れた空いている箇所に車を停める。

 

・車から息子を降ろして車をロックする時は、必ず息子の手を握ったままロックをする。

一瞬の隙に急に走り出して他の車にぶつかる可能性を防ぐ。

 

③人ごみの中を歩く時

子どもの身長では大人では想像も出来ない危ない世界が広がっています。

100㎝くらいしか身長がないと、大人の腰くらいまでしかありません。

キャリーケース、ショッピングカート、手に持ったままのスマホ等、顔や身体に直撃すると危険な物が子どもには前方から迫ってきます。

大人がみんな子どもが好きや、子どもの事を考えて歩いてくれる人ばかりではありません。

なのでそこは私の出番です。

 

・手をつないでくれる時は前方の様子を伺いながら、危険な物を避けて通れるようアシストする。

 

・手をつなぎたがらない時は、息子の後方にピタッとくっつくように歩き、相手の出方を見て息子の行く方向を両肩を右へ左へ向けて行く方向を修正してあげる。

 

エスカレーターやエレベーターで

エスカレーターはやたら急いでいる人がいますので、特に注意が必要です。

本来はエスカレーターを歩く行為は禁じられてはおりますが、急ぐ人には全く関係がありません。

だいぶ前の話ですが、息子が自分で歩き始めた頃の出来事です。

博多駅で息子とエスカレーターに手をつないで乗っていることがあったのですが、後方から歩いてきた人にあからさまに嫌な顔をされ、息子を抱っこして進路を譲ったことがあります。

最近幼い子に対して、いい大人があからさまに嫌がらせをする記事も目にします。

自分が自転車で歩道を走っていて、その前方に子どもたちが歩いており、それを邪魔だと感じたのか、子どもの思い頭を叩いたり、暴言を吐いたりと神経を疑う行動を取る大人がいます。

息子の場合は私と常に行動していますから、そんな行動を取る大人が出ては来ないかとは思いますが、念には念をという事で以下のような行動を取ります。

 

・息子もしっかりと歩けるようになったので、非常に混雑している時のエスカレーターでは私の一段前に息子を乗せ、縦に並んで乗るようにする。

 

・エレベーターは乗る時と降りる時が一番危険。

子どもは乗る時に早く中に行きたいという衝動に駆られます。

ドアが開くまで息子の手をしっかりと握るか、私がかがんで息子の目線に合わせ「もうちょっと待ってね」と伝えます。

そうしないと降りる人が出てきた時に息子がエレベーターに入ろうとすると、出会い頭にぶつかってしまう可能性があります。

 

・降りる時も同様。

いい大人でも降りるまで待てない人が沢山います。

ですので、息子が扉が開いた瞬間に飛び出してしまうと、乗る時と同じようにぶつかってしまう可能性があります。

 

⑤上り坂より下り坂が危険

ご年配の方同様に子どもも下り坂が苦手です。

上り坂ではこけたりつまずいたりする可能性は低いですが、下り坂ですと急に足がもつれてこけたりつまずいたりする可能性が高いです。

また、下り坂はスピードが上がるので子どものテンションも同時に上がり、ついつい調子にのりがちです。

なので私は以下のような方法を取ります。

 

・下り坂をどうしても駆け抜けたい衝動に息子が駆られたら、必ず手を繋ぎ「ふぅ~~~」と私が声を出し、スピードが出ている雰囲気を声で醸し出して速度を調整する。

 

・階段を早く下りたい時も同様で、私が「ハイ!ハイ!ハイ!ハイ!」と手を繋ぎ声で躍動感を出してスピード調整をする。

 

⑥番外編

息子が最近電車に興味を持っているので、二人で電車に乗る機会が増えています。

電車のホームも危険がいっぱいなので、以下のように私は行動します。

 

・息子をホーム近くに行かせないようにする。

 

・電車がホームに入ってくる時はかならずかがんで息子の目線で両肩を抱く。

 

息子の目線に私がいると息子も安心するのか、ホームに近づきませんし入ってきた電車を見て私に「見て!見て!でんしゃきたね!」と興奮しますが、私の顔がすぐ近くにあるので行動は落ち着いています。

ホームで電車を待っている人の中で、そんな子どもと同じ目線でかがんでいる大人が見当たらないので最初は恥ずかしかったのですが、息子の安全のためなら恥も外聞もありません!

 

息子と外に出て遊ぶのはとても楽しい事ですが、息子の安全を守るという使命が私にはあります。

楽しさを求めてお出かけしたのに、、、なんて結果にならないためにも気が抜けないのが子育てです。

でもその安全を教えていってあげるのも親の役目です。

 

息子があまり話せない頃から信号機の前で「今、赤だから待ってね」「青になったね。周りを見て渡ろうね」と言い続けていたこともあり、最近の息子は「あ!赤」と信号機を見て言い、両手をクロスさせてジェスチャーで✖をします。

赤は止まれ、青はOKというのを理解している証拠だと思います。

 

大人に出来て、子どもに出来ないこと。

それは予測です。

子どもは興味があるものにすぐ飛びつくという純粋な心の持ち主ではありますが、危険を予測する事は出来ません。

楽しさを求めてお出かけしたのに、怪我や事故になってしまったら元も子もありません。

 

私は車の免許を取得してから34年間無事故ですが、それは私が車好きだからこそ危険予測にいつも気をつけていたからだと思います(後方から追突されるなどもあるので、もちろん運もありますが)。

 

車とは比べものにならない愛する息子。

息子が自立して学校に行き出せばどうしようもないですが、幼く私と妻と一緒でしかどこかに行くことが出来ないこの時期は、息子に危険が及ばないようヒヤリハット活動を続けていきたいと思います!

 

最後までご覧いただきありがとうございました!

 

 

 

 

子どもは自己肯定感の身近なお手本

 

※私が生まれた年に製造された車両と記念撮影

 

まだまだ昼間は暑いですね。

ただ、昼間はセミの声、夜以降はスズムシの声に分かれだしましたし、徐々に秋が近づいているのは間違いないですね。

 

さて今回の話に入ります。

私は本屋が好きで、暇が出来れば良く行くのですが、最近「自己肯定感」にまつわる書籍が多いなという印象を受けました。

そういった書籍を目にした時に「自身はどうかな?」と改めて考えたのですが、あまり高くはない(笑)

正確に言えば以前はかなり低かったが、徐々に変わってきたというのが正解ですが。

 

なんだかんだで周囲の人たちのことがいつも気になりますし、なんせ躾に異常に厳しかった父の元で育った私。

また、県立で一番の高校に進学した弟と、県立でも真ん中の高校に進学した私とを、生まれ育った近所の方に常に比較されていた過去も持ち合わせています。

 

ただ、自己肯定感が低い人に見られる承認欲求が強めかというと、実はそこはそうでもなく「どうせ俺なんかを誰も相手にしてくれない」という気持ちが強かったので気にしたことはなかったです。(それはそれでその考えもダメですが)。

 

人見知りでしたし、人と群れを作るのも苦手でしたから、そうなると承認欲求って出てこないんですよね。

 

結果、自己肯定感低めな人間をつくる環境には素晴らしく適した環境で育ちました。

その証として

役者として生きる夢の挫折

キャリアアップじゃない転職ばかりを繰り返し、いつも振り出しに戻る会社員生活

結婚離婚を繰り返した過去

 

そりゃそうなりますね。

 

そうした私ですから「誰もが私より輝いて見える」「誰もがまっすぐな道を進んでいるように見える」「誰もが自分より自信に満ち溢れて生きている」のように思って生きていた時期もありました。

 

ただそれも40代位までで、50代に差し掛かろうとした時には逆に「諦めの境地」に入ります。

その境地に入ってからというものは、むしろ好転しだし、転職も50歳手前なのに仕事がまったく途切れることもなく入社が決まり、入社後4ヶ月後に妻の妊娠が発覚、そしてその翌年に無事息子が私たちの元にやってきました。

 

「諦めると手に入る」

不思議な感じですが、諦めてからは逆に穏やかな波に乗り、その波の上に色々な幸せが乗ってきた気がします。

私が結婚4回目で初めて子の親になれたのも、今の妻との関係性が順調に育まれていった結果だと思っております。

 

そして、息子が誕生した翌年には妻の故郷である福岡へ異動が決まり、異動がコロナ禍の中での事だったので休業に一旦追い込まれますが、そこも給与がきちんと補償されておりましたし、なんせじっくりと息子の子育てと成長過程をばっちり見ることが出来ました。

かまり立ちから初めて二足歩行する瞬間も見ることが出来ましたし、話せなかった息子が初めて「パパ」って言ってくれた瞬間は心の奥から感動を覚えました。

 

コロナ禍の中で私が着任するはずだった新規オープンのホテル工事の目処が立たず、結果店舗の支配人から現在のセールス課へ異動することになりましたが、そこも非常に私にとっては良い流れでした。

 

休みも本社に準ずる土日祝日休みが普通に取れるようになり、息子とじっくり遊べる充実した時間を確保出来ました。

店舗にいるとイレギュラー対応もしなければなりませんし、世間様がお休みの時は稼ぎ時なので休みも取れません。

店舗は24時間営業と同じですから、責任者であれば朝方だろうが夜中だろうが緊急時は対応しないといけません。

それを考えると、今は企業や旅行会社が営業している時間さえ私も勤務していれば問題ないですし、数字は追わないといけない仕事ではありますが、気持ちにかなり余裕が生まれます。

 

息子が私たちのところへ来てくれる時より少し前に諦めた私。

その生まれた息子が私たち夫婦に多くの幸せを持ってきてくれました。

生まれる前は「こうして二人でどこかへ行くって今後しばらくないね」と妻と話をしており、少し寂しい気持ちにもなりましたが、今は息子のいない生活は考えられません。

 

そして何より息子から多くの「自己肯定感」を教わっています。

息子は好きなことにひたすらのめり込みますし、劣等感など微塵も抱きません。

常に新しいものに興味を示し、何でも自分でやりたがりますし、失敗などを恐れて行動しません。

そこは「自分なら必ず出来る!」という気持ちが強く働いているんだと思います。

 

さらに息子が歩けるようになり、言葉を少しずつ話し出してからはなおさらその傾向が強く出てくるようになりました。

「自身の可能性」を全く疑わず突き進む。

そんな雰囲気に、本来大人で子どもに教える立場の私が、逆に行動面では息子の方が先生のような感じがします。

 

そんな私を勇気づけてくれる息子ですから、一緒に行動するのが楽しくてしょうがありません。

私の休日は、平日に子育てを頑張ってくれている妻のために息子を連れ出すという理由もあるにはありますが、私自身が息子と過ごしたいという気持ちが大きいから二人で出かけている気がします。

 

息子と一緒に出掛けたり遊んだりしていると、以前の私が恥ずかしく思えてきます。

 

「自分はなんて腐っていたんだろう」「自分は何で人とばかり比較していたんだろう」

「自分はなんで他人をうらやんでいたんだろう」等

ちっぽけな気持ちを抱いていた自身が浄化されていくような気持ちになります。

 

そういった気持ちをすべて取り払ってくれる息子。

息子の姿はいつでも

いつも自信に満ち溢れ自分のことが大好き

私と妻にいつも愛されているというゆるぎない自信

自分は必ず出来るという簡単に諦めない姿勢

これが息子の積極的な行動の原動力となっています。

 

なので私は自己肯定感の本を読まずとも、息子という自己肯定感のお手本がそれを教えてくれます。

確かに息子が生まれた当初はプレッシャーもあり、妻とケンカをすることもありました。

でも急速に成長する息子を間近で見てきて、夫婦でケンカする暇があればしっかりと協力して子育てに向き合わないといけないと二人で考え直しました。

息子のひたむきな姿に私自身の些細な悩みは払拭され、「何事も前向きに捉える」という考えに変わっていきました。

 

そうなるとあとは好転のみ。

そりゃ現実を見れば、私がいるこの宿泊業という業種には未だに明るい兆しは見えておりません。

ただ、そこをあれこれ悩んだからと言って何かが劇的に変わるわけでもないのであれば、少しでも前向きに明るく考えたほうが断然良いという気持ちに息子と過ごしていて変わってきました。

 

今年の夏もボーナスと呼べるほどの金額は出ませんでしたが、あえて県内のホテルに泊まり旅行気分を味わって、息子が好きな昆虫博や鉄道記念館に連れて行ってあげました。

息子は未体験のものばかりですから大興奮かつ大喜びでした。

そんな息子の姿を見ていて私も妻も幸せな気持ちになりました。

 

今いる環境で出来ることを楽しむ!

以前の私ならば「たんまりボーナスをもらってそのお金で思い立ったところに行ける一部上場企業の人や公務員が羨ましいー」「それに比べて俺なんて」のような腐った考えが先行していたかと思います。

 

人は人。

自分は自分。

そんな当たり前な気持ちを思い直させてくれたのも息子です。

 

いつも元気で前向きな姿を見せてくれてありがとう。

また一緒に遊ぼうね!

 

最後までご覧いただきありがとうございました!

 

 

 

おもちゃの買い与えはどこまでが正解か

※この公共施設でのプラレールとの出会いで最近プラレールに火がついた息子。


いやー、毎日毎日本当に暑いですね。

私が住んでいる福岡も連日熱帯夜と猛暑(酷暑)続きです。

暑い分には熱中症対策を行っていれば良いですが、とにかくマスクが辛い。

私は外回りが仕事のメインなので、マスクを着用しているだけで汗が止まりません。

さすがに息苦しい時は外して歩いておりますが、行き交う人の大半がマスク着用なので気を使わないと言えば嘘になり、すれ違いざまにはマスクを着用しています。

 

一時期は外では無理にマスクをする必要はありませんと言われておりましたが、感染者がまたまた急増している中、マスク着用者が増えたような気もします。

それこそ私のメイン業務は営業活動なので、さすがにノーマスクで訪問出来る雰囲気ではまだまだありません。

科学的見地から改めて検証してもらいたいと願いながら生活しております。

 

また、私が以前いた北陸地方は豪雨被害。

土砂災害・道路陥没・河川の氾濫と住民の方々には大変厳しい状況が続いているようですが、早く復旧して元の生活に戻れるといいですね。

猛暑やコロナと、ただでさえ辛い中、豪雨被害まであると当事者であれば何をうらんでいいか分からない状態だと思います。

 

本当に明るい話題の少ない昨今ですが、日々の暮らしは暗かろうが明るかろうが繰り返していくばかりですし、それならば少しでも明るい話題が増えて欲しいものですね。

 

さてそんな話から今回の「おもちゃ」の話に変わります。

 

みなさんはどこまでお子さんにおもちゃを買い与えていますか?

誕生日のみ1個、月に1個、または壊れたら1個。

各家庭でまったく買い与えかたは違うと思いますが、みなさんのご家庭ではどうでしょうか。

「すぐ飽きるし無駄になるから買い与えない」

「同じような物をいくつも持っていても意味が無いから買い与えない」

「その場の勢いで欲しているだけだし、本当に心から欲しいと思っていないので買い与えない」

一方、

「喜ぶ姿がかわいいから買い与える」

「欲しいという気持ちを尊重したいから買い与える」

のように、様々な意見があるかと思います。

 

以前、ある専門家の方が「色々と買い与えると物を大事にしないし、その与えたおもちゃを遊び倒すくらいにした方が良い」という記事を見ました。

その記事を見た私はドキッとしたのですが、その理由は私は息子に対して異常におもちゃを買い与えているからです。

 

何でそうなったのかと言いますと、父は私に全くおもちゃを買ってくれなかった人だったので、いつも私は祖母に密かに買ってもらっていました。

その買ってもらったおもちゃも父に見せれば激怒するため、おもちゃは祖母の家に保管しており、そのおもちゃで遊ぶのは自宅ではなく祖母の家で遊んでいました。

 

七歳下の弟が生まれるまでは一人っ子状態の私でしたし、自宅でおもちゃで遊べない環境は非常に辛く寂しいものでした。

 

唯一父が買い与えてくれたのは百科事典で、まだ字もまともに読めなかった幼い私でしたし、正直あまり興味が持てない物でした。

興味があるのはミニカーや超合金のロボット。

その興味のある物は一切買い与えてもらえませんでした。

結局これが親元を離れるまで続きましたが、、、。

 

平日の帰宅は午前様の父だったので、テレビは好きな番組を見る事が出来ましたが、休日ともなるとチャンネル権は父だったため、私の幼い頃の楽しみは‘‘ひたすら寝る‘‘というある意味健康的な生活を送っていました。

 

父は居間にいてもいつも不機嫌でムスッとしていましたし、話せるような雰囲気でも無かったため、以前もお伝えしましたが父とは会話を一切しないという家庭環境で育ちました。

 

そんな私でしたので、まだ会話が出来るレベルとは言えませんが、息子にどんどん話しかけています。

息子は理解はしているようで「いやっ」とか「するー」とかその問いに答えてはくれます。

休みともなれば息子と二人で出かけますし、買い物にも必ず一緒に出掛けています。

 

最近の息子は好みも色々出てきて、ホームセンターやスーパーに行けば自分の好きな物を手に取って見ています。

そして気に入った物があれば「パパ!パパ!」と私を呼び「これぇほしいー、これぇかうー」と言ってきます。

以前はその欲しい物と類似している安価な商品を見せて納得させて買っていましたが、最近はその方法で騙されなくなってきました(泣)

「こっちでいいんじゃない?」

「・・・・イヤイヤ!」

「これぇかうー」「これぇほしいー」と私に自分が選んだ物を買ってくれとせがみます。

 

本来であれば

「いや。これはちょっと高いよ!」

「すぐ飽きるかもしれないし、こっちでいいんじゃない?」

とか

「これは前に買った似たやつが家にあるから必要ないよ」

「パパは給料日前だから今この金額は辛いなぁ」等

言いたいのですが、いかんせんまだそこまで理解が出来ません。

 

以前妻にも伝えたのですが「息子が言葉のキャッチボールが出来るまでは欲しいと言った物は全て買い与えたいんだよね」と話した事があります。

 

先に述べました専門家の意見も確かに一理あるかとは思います。

 

ただ息子を見ていると粗末に扱うというよりは、興味を持った物は何回でもおもちゃ箱から出して遊びますし、ある程度遊んで興味が無くなったものは箪笥の肥やしとなります(笑)

箪笥の肥やしとなった物はどんどん処分していますが、息子も気づきませんし、私も自分でそうしてあげるという思いで買っているので「あーもったいない」という後悔も全くありません。

 

私は数多く撃った中で息子が興味を深く示す物に出会えばそれでいいと考えておりますし、最初は「これいいな」と思ったとしても、「あ、やっぱり違った」と思うのは大人でも十分あり得る話だと思います。

だから早い段階で物を見る目を養ってくれたらいいなとも考えております。

 

以前「興味は未来への活力」というタイトルのブログを投稿しましたが、今の私の役目は息子に色々な物を見せるだけ見せて、その中から深く興味を示す物を一緒に探してあげる作業の手伝いをすることだと思っております。

 

tyusen-yo.hatenablog.com

なので最近は興味を持ったおもちゃ以外にも書店にも連れていき、息子が興味を示した図鑑も必ず買っています。

何度も話しておりますが、私は「高給取り」ではありません。

なので固定費を抑えて息子の興味に投資しています。

 

息子が生まれてから転勤を除いて2回引越しましたが、今の借家は古いですが十分な広さの部屋と庭がありとても快適です。

自分がどこに重きを置くかにもよりますが、今の私は「息子の興味」に重きを置いている気がします。

 

別に息子からの将来リターンを望んでいるわけでもありません。

息子と暮らす期間が通常の父親より短い分(50歳の時の子ですから)、私が現役の内に息子が色々な可能性を探れる環境にしてあげたいのです。

 

ですので、おもちゃであろうが他の物であろうが、息子が私にせがむほど言ってきた物はこれからも買い与えていきますし、きちんと会話が出来るようになってからは息子に対して欲しい理由等のプレゼンを私にさせようかと思っております。

 

そして、そのプレゼンの中にただただ欲しい以外の明確な理由やメリットを語れるのであれば、その時は私は喜んで手を差し伸べたいです。

 

欲しい物をまだ我慢出来ない年齢(感性や感覚で生きている)の内は私は買い与える派です。

感性や感覚で生きているのに理由や理屈なんて理解出来っこないですし、そんな時は自己肯定感を伸ばしてあげたいなという気持ちが私は先行します。

 

きちんと会話が出来るようになり、理性や知性が少し出るようになった時に、彼なりに私を説得出来る内容を述べれるのであればその時は買いますし、述べられないならば私は息子に「そんな理由では買えない」と正直に伝えたいと思います。

 

私のように固定費をグッと抑えた家計だから成せるやり方かと思いますが、私の幼い頃の経験から、私は息子に対して幼い間はそうして上げたくて捻出出来る環境を作りました。

 

この話に実は正解は無いと私は思っておりますし、あくまでも「家庭の事情による」が正解かと。

与えようが与えまいが、結局はその子の本来の性格による気もしますが、、。

 

「こういった考えの親もいますよ!」というのをお伝えしたかった今回の話でした。

 

最後までご覧いただきありがとうございました!