ある男の幸せ追及と子育て日記

元役者で転職15回、結婚4回、50歳を過ぎて初子育てと、何かと波乱万丈な人生を歩んでいます。子育てや所感を中心に人生の幸せを追求していきます!

仕事はまず職場環境ありき!②

 さて前回の続きです。

店長も出勤停止となり、新たな気持ちで職場へ向かいました。

ただ私の気持ちとは裏腹に、職場は異様な空気に包まれていました。

まずパートさんが挨拶を無視

まさか次に私と普通に会話してくれていた大学生のアルバイトの子も無視

 

 私はここで何が起きているのか皆目見当もつきません。

制服に着替えて業務に入り、私はいつも通り洗い場や仕込みを行っていました。

それからしばらくしてパートさんのひとりが私のもとへ完全に怒りを露わにした表情で近づいてきます。

何を言い出すのか構えていると、「あんた何様のつもり!」「店長がおらんくなったら誰が店を回すの?(表現を忠実に再現しているのでおらんくなったらはいなくなったらの事です)」「あんたまだ入って半年足らずでどう責任取れんの?」と立て続けに文句の嵐でした。

まだまだ文句は続いていましたが、あとは正直ショック過ぎて覚えておりません。

 

 私は内心「そこですか」「別に私が店長を排除して責任者になったわけでもないのに」と思ってしまいました。

 

ただその意見もパートさんからすればもちろん正論だと思います。

実際、私以外は被害を被っておりませんし。

 

 それからしばらくし、大学生の女の子も見たことも無い表情で近寄ってきます。

「〇〇さんひどいよ!」「私の彼氏が無職になったらどうしてくれんの?」

「え?、、、」

 

まさかまさかの店長が彼氏だったわけです!

 

そして前回私が店長の悪口を言ったことも改めて文句を言われ、「もっといい人だと思ってた」「そんな腐った人だと思わなかった」と捨て台詞を吐き去っていきました。

 

 私は「あーもう何もかもだめか、、、」と心の中で思いました。

今回私は完全にパワハラ被害者だと思うのですが、私がこの職場に配属されたことで周りのスタッフは今までの流れを崩されたのも事実です。

 

 不思議なのは、なぜ店長が私をそこまで執拗に追い詰めたのか未だに分かりません。

自分で言うのも何ですが、やっと決まった仕事でしたし、謙虚な姿勢で臨み、真面目に勤務していました。

 

 ただ唯一のヒントとして、パートさんの中で私に一人だけ好意的に接してくれた人がいます。

その人曰く、岐阜の特に美濃地方はよそ者が嫌いという話をしてくれたのを今でも覚えています。

また、愛想が良い男性は嫌われると、、、(確かに添乗員時代おば様の心を鷲掴みした栄光のかけらもなかった職場でした)。

観光産業で成り立つ飛騨地方の人はよそ者でもウェルカムらしいのですが、製造業など独自の文化で成り立つ美濃地方はよそ者がいなくとも平気だと考える文化なのだと。

 

 私は自分で言うのも何ですが、根暗は接客が得意説でも話した通り、確かに普段から愛想よく周りと接しています。

店長はこの会社に入社する前、和食の料理人の世界で腕を磨いてきた人だったそうです。

そんな厳しい世界で修行してきた店長にとっては、私のように愛想よく振る舞う男が疎ましい存在だったのかもしれません。

 

 これはあくまで私が個人的に聞いた話なので真意のほどは定かではありませんが、自身を納得される意味でもそうなのかと信じたくなります。

 

 岐阜に希望を抱いて移った私でしたが、絶望に変わる瞬間でした。

私は本社へ連絡し、今の状況を話し、私が退職するので店長を戻せるなら戻してくださいとお願いしました。

本社は「どうしても辞めるんですか?」と何度も念を押してきましたが、この環境の中で私に気持ちを転換する気力はもう残っていませんでした。

 退職を決め、制服をクリーニングに出し、最後に店に行った時のことです。

普段は常駐していなかった社員の方がヘルプで入っており「〇〇店長は結局自身で退職願を出し、退職されました」と話してくださいました。

 

 私が入社しなければいつも通りに流れていた日常風景。

本当に些細なことがきっかけでその景色が急激に変わってしまうのだなと。

 

 そんな物思いにふけることも出来ぬまま私に現実が迫ります。

「社宅だから出ないといけないな」

「貯金も無い自分はどうするのだろう」と。

 

 お世辞にも給料は高くない仕事でしたし、社宅の家賃を引かれると手取りは10万円ほどでした。

そこから光熱費やガソリン代、携帯代を引くと残るのは毎月5万円程度です。

それでも店長に上がれば給料が増えていくんだということを目標に入社し頑張っていました。

 

 ひとまず私は敷金礼金が無い物件を探し、そこに引越します。

住んでいた郡部から少しでも仕事にありつけそうな岐阜市の外れのアパートに入居しました。

 

 まず生活資金が足りない私は派遣会社に登録します。

ただ、なかなか定期的な単発の仕事が見つかりません。

長期派遣に行ってしまうとズルズルと引きずり込まれ、この先見知らぬ土地で正規雇用の生活に戻れなくなると思った私は短期の現場で週払いしてくれる仕事を中心に探します。

 

 以外と遠い現場が多く、岐阜市から愛知県犬山市三重県桑名郡など、かなりガソリン代がかかる現場ばかりで、交通費が一切出ない派遣の仕事では仕事をしていても生活が一向に楽になりません。

 

 気づくと私は岐阜に来た時から17kgほど体重が落ちていました。

今は戻りましたが、当時は栄養が行き届かないのか心労なのか頭部の髪の毛も抜け落ちていっており、仕事を終えアパートに帰った私は涙が止まりませんでした。

 

 「このままでは岐阜で野垂れ死ぬ」と本気で思いました。

そんな時に私の頭に浮かんだ人がいます。

 

 それは元妻です。

私は恥を忍んで彼女に連絡をしました。

すると「なんしようと」「大丈夫と」と優しく応じてくれ、思わず元妻の声を聞きまた涙が溢れ出しました。

事情を話すと「とりあえず食料を送るけん、住所教えて」と言ってくれ、後日本当に食料が送られてきました。

 

 そして届いたあとお礼の連絡をした時の事です。

元妻が「どうにかして福岡に戻ってこれんと」と言うではありませんか。
ただその後に「よりを戻すとかそういう意味では無いけど、福岡で就職活動するのであれば食事くらいはサポートして上げられるし、就職活動中は私の知っている派遣会社にお願いしてその間の仕事を紹介してもらえるかも」という内容でした。

 

 その時の元妻へのありがたみは今でも忘れることが出来ませんし、そこが無ければ私は路頭に迷っていたかもしれません。

私はその台詞を聞き、弱りきった心を切り替え一念発起するのでした。

 

 それではまた次回お話出来ればと思います。

 

 本日も長い文章にお付き合いいただきありがとうございました!