ある男の幸せ追及と子育て日記

元役者で転職15回、結婚4回、50歳を過ぎて初子育てと、何かと波乱万丈な人生を歩んでいます。子育てや所感を中心に人生の幸せを追求していきます!

50才からの子育ては体力が!?

 子育てを始めて2年目。

過去に3回結婚しましたが、子供はいませんでした。

4回目の結婚で無事誕生した息子も1才9ヶ月を迎えます。

 

 今のところ2回ほど風邪をひきましたが、大きな病気等はなく、あとは順調にすくすく成長してくれています。

まだ言葉は話せませんが、私や妻が言っていることは理解しているようで、おむつ交換や着替え等をさせようと声をかけるとニヤッと笑いながらキャッキャッキャッと声を上げつつ逃げていきます(完全に分かってやっている確信犯ですね)。

本当にいたずらが大好きな赤ちゃんです。

 

 で、今回のテーマの子育てですが、年を取ってからの子供なので、ぐずったりして全く言う事を聞かなくても怒ったことは一度もないのですが、いかんせん体力的に辛いものはあります。

息子は平均より大きい子で現在身長87cm、体重は15kgほどあり、初めの頃に比べ抱っこをするのが大変になりました(妻はなおさらのようですが)。

 

 先日も子供がまたがって乗り、自身の足を使って動かす車を走らせていたのですが、私に向かってくる際に私めがけて突進してきたため、反射的に私が息子の頭上を飛び越えて避けたのですが、えらくそれが気に入ったようで「うひゃー」と歓喜の悲鳴を上げ楽しむ姿がかわいくて、それを十数回以上繰り返し遊んであげたのですが、翌日駅の階段を下りている時にふくらはぎの筋に激痛が走り、軽い肉離れを起こしました(おっさんが急に産まれたての子馬のようになり、足をかばうので真っすぐ歩けませんでした)。

 

 私が休みの日にあちこちの公園に連れて行くのですが、周りのパパ・ママを見ると私よりはかなり年下の方ばかり。

この先、幼稚園や小学校に通いだしたら私は運動会とか出られる体力はその時にあるんだろうかと真剣に考える時も多々あります。

 

 ただ、この年になって縁あって出来た子ですし、そこは前向きに捉えていこうと思って日々子育てに励んでいます。

 

 子を持って初めて分かる親の苦労

多いのは多いですよね。

子供は本当にかわいいですが、なかなか思い通りにいかないのが子育てですよね。

私は年を取ってからの子供なので、かわいいほうが先行しますので問題は無いのですが、若い頃なら正直今のような自信は無かったです。

 

 また私は外に仕事に行っていますし、その時間は子育てから離れる分だけ妻よりもリフレッシュ出来ます(子供といると目が離せないことが多いので)。

その点妻は1日中子供と過ごしていますし、私より妻の方が苦労は多いかと思います。

 

 まだ乳離れもしないので、妻は必ずお乳タイムに時間を取られますし、お乳タイムの時に泣いた子供には私では何の役にも立ちません(お乳を飲まないと泣き止まないので、そこは父親の限界ですね)。

ただ私は家事を行うことに一切苦痛を感じないですし、むしろ好きな方なので掃除や料理はすすんで行っています(休みの日は洗濯も)。

妻に少しでものんびりしてもらいたい気持ちもありますし、私の家のルールは妻に私が仕事に行っている間は子育てに集中してもらい、あとは私が帰ってから料理と皿洗い等の片づけ作業はすべて私が行います。

 

 前にも少しお話しましたが、私の父は私が幼いころから独立するまで一度も私と遊んでくれたことはございません(物心ついてからですが)。

実際弟からは父に文句が数年前に入ったそうです(父は父でショックを受けておりましたが)。

私は父を恨んではいないですが、やはり子供ながらに寂しさを感じたことはありましたし、何か色々遊びながら教わりたかったなというのが正直なところです(何か質問すると教わるんではなく自分で調べろと辞典や辞書を渡されました)。

 

 本当に子育ては予期せぬ出来事の連続で、良く言えば奥深く、悪く言えば罠がたくさんですが、こちらも勉強させられることも多いですし、これからもしっかり子供と向き合い、妻と協力しながら頑張っていこうと考えております。

 

 本日も長い文章にお付き合いいただきありがとうございました!

 

 

 

地元での初めての就職 ~就職先って大事~

 私は東京を離れ九州の地元に戻りました。

しばらくは祖母を病院へ連れていくために、求職活動をしながら生活していました。

ずっと一人暮らしをしていたこともあり、久しぶりの実家生活は非常に窮屈には感じました。

 

 私の中では実家にいた時代は小・中とあまり良い思い出が無く、地元だと小・中の友達付き合いが大切なテリトリーになるので、東京に出てから周りと10年以上音信不通だった私としては、地元という環境になおさら馴染めない人間になっていました。

 

 ただ、祖母は生前孫の中でも特に私を可愛がってくれたこともあり、祖母に恩返しをしたいとの思いで地元へ帰ったため、私の中では非常に保守的で嫌いな地元を受け入れるしかなかったと思います。

 

 弟が県下で一番の高校に通っていたこともあり、近所の人に会うたびに弟と勘違いされ、「あーあの高校に行った人だね」という言葉をしょっちゅうあちこちで言われ、私は否定するしか返答が出来ず、否定したら否定したで、「あんたどこ高校だった?」とか聞かれ、答えれば答えたで「・・・」となるし、とても嫌な気持ちになったことを覚えています。

人の価値をそこでしか周りは見ないのか」と。

 

 それから半年ほど経ち、祖母の病気も無事完治しましたが、完治してからしばらくして階段から転げ落ちる事件がありました。

階段から落ちたのがきっかけかどうかは定かではないですが、そこから祖母の痴呆の兆しが見えてきました。

 

 そのころ私は地元の不動産会社の賃貸営業に従事していましたが、社長の奥様、息子、娘、他私を入れて3名が働いており、ほとんど家族経営のような会社でした。

仕事自体は理想の部屋探しのお手伝いが出来ることもあり、とても楽しく働いていましたし、それなりに成約率も高く頑張っていたと思います。

ただ1年ちょっと経ったある日、社長の息子さんが結婚するという事で新居を探していたのですが、その時に社長の奥様と息子さんの間で話していたことが聞こえてきて一挙にモチベーションが下がってしまいました。

 

 その内容は給料の事で、どんなに私が成約しても給料は増えませんが、息子さんが結婚したことで奥様が「40万くらいあればいい?」「それとも45万?」みたいな会話をしていました。

その時の私の給料は額面で18万円だったので、手取りは13万から14万ですした。

前職ではその倍以上もらっていたのですが、「東京と違って地元は時給単価も安いし、仕方ないか」という気持ちで臨んでいましたが、その話を聞き心では「そんなに儲かっているのに、息子や娘以外には還元しないんだ」と思ってしまいました。

 

 年を重ねた今では「家族経営なんてそんなものだよね」という気持ちが先行し、そういう企業に面接で行ったら気付くとは思いますが、当時正社員として2社目の私は気付く術など持ち合わせていなかったし、仕方ないと思います。

 

 それからしばらくして私は退職届を提出しました。

当時32才でこれからまた結婚はしたいと思っていましたし、何か自分の価値の低さにやるせない気持ちになったことを覚えています。

 

 私は役者以外は食べていくには何でもいいやという基準で仕事を決めていたため、その後も職を転々とすることとなります。

今は転職も当たり前の時代ですが、転職をするにも自分のスキルを磨いていかないとどんどん自身の価値を下げるだけです。

転職するにも目の前のことばかりではなく、きちんと将来を見据えて動かないとなかなか経済的自由ひいては精神的安定は得られないのではないかと子供が出来たこの年になって気付いた馬鹿な私でした。

 

 皆様へ

人生設計は早め早めが大事ですし、私のようにこの年になり右往左往するよりも、仕事を選べる年代の内に将来のことを考えて明確なビジョンのもと行動したほうが苦労を最小限に食い止められると思います(お前に言われなくても分かってるよという声が聞こえてくる気がしますが)!

 

 本日も長い文章にお付き合いいただきありがとうございました!

 

 

 

 

 

 

 

初めての就職から離職まで

 私は役者をやっていたこともあり、初めて就職したのは26才の時です。

世の中には新卒で同じ会社に勤め上げる人も多く存在するかと思いますし、新卒で入ったものの途中で挫折して転職をする人もいるかと思います。

 

 私はいつも中途採用なので同期と呼ばれる仲間がいたことはありません。

振り返ると部活も剣道で個人戦、役者も個人、もちろんチーム戦もあれば役者も他の役者さんやスタッフとともに作り上げるチーム戦だと思いますが、基本はひとりを貫くスタイルです。

 

 私の性格上出来る限り家族以外の人に接する時間が短い方がいいというのもあるのだと思いますが、あえてそういう道を選んで生きていたかもしれません。

 

 話は戻りますが私の初めての就職は、前回お話した最初の妻と結婚するために当時のアルバイト先からそのまま正社員になりました。

最初にいた会社は不思議なことに東京出身者ばかりで、地方出身者は私のみと非常に珍しい環境だったため同僚によく方言を教えてと言われたことを未だに覚えています。

今でこそ以前より規模が大きくはなりましたが、当時は本体からの別ブランドとして立ち上げた飲食店だったので、社員数はかなり少ないものでした。

 

 本当に周りの同僚も性格がいい人たちで、初めての就職でしたが非常に満足しておりました。

また仕事面では全国でも売上がナンバー1店舗の店長ということで、今思えばちょっと調子に乗って浮かれていたことは否めません。

仕事のやり方も自分が一番正しいと思っていましたし、自分に従わないスタッフには厳しく叱責したりもしました(いやな奴ですね)。

 

 ただ一方的に叱ることもありましたが、何かあれば悩みには相談に乗っていたこともあり、離職する人はかなり少なかったと思います。

 

 当時の自分は離婚したばかりでしたし、若さも相まって、何か憂さ晴らしのように急に荒れる時もあったんでしょうね。

 

 店長になってからFC店の店長の指導や、新規立ち上げ店を行う出張等、自分の中では「すっかりサラリーマンになったな」という気持ちがたまによぎるようになりました。

よぎる要因はもちろんあり、当時のアルバイトの中に役者をやっている人が2人いたのですが、ある日1人に「店長、役者を諦めていいんですか?」「後悔はないんですか?」と聞かれ、本心は後悔もありましたがすでに30才手前だった私は「後悔はないよ」と嘘をついていました。

 

 当時その質問をしてくれた彼ですが、今はある有名劇団のトップに近い位置で頑張っています。

未だに声は覚えており時折CMやドラマから聞こえてくる声に反応すると、彼が出演しています。

本当に何事も諦めず努力し続けている姿は同じ人間として感心しますし、なかなか真似できないかと思います。

 

 またまた話を戻しますが、それから1年ほど経ったある日、本社から2店舗の店長を兼任して欲しいと言われ、自宅から西と東に通勤する日々を送ります。

 

 私は初台に住んでいましたが、店舗は新宿と相模原の2店舗で相模原に通うのは少し遠かったのですが、通勤の流れと逆のため座って通勤出来たため、そこまで苦痛ではありませんでした。

 

 ただ相模原店のスタッフとはあまりうまくいっているとはいえず、色々頭を抱えることもあり、自身の中では本社を恨むという気持ちが湧いておりました(自分で受けたくせに勝手ですね。

 

 そこから1年ほど経った2000年のある日、実家の祖母が倒れるという連絡が母からあり、普段は干渉を一切しない母でしたが、その時ばかりはちょっと違いこのように私に言いました。

「まだ東京にいないとだめ?」

「ちょっとお願いしたいことがあるんだけど」

私は「ん?」と思いましたが、ある程度推測は出来ました。

当時の父はメーカーの部長職でバリバリに仕事をしており、父の母ではない祖母に対しては実の親子でないぶん多少わだかまりがあり、母が運転出来ないため祖母を病院にしょっちゅう連れていかなきゃいけないのに、父に頼めない。

そこで白羽の矢が私に来たのだと。

 

 私は相模原のこともあり、元々は別れた妻と結婚するために就職した職場でしたし、何かすーっと「辞めるかぁ」という気持ちになりました。

 

 51才になった今でも最初の職場に勝る人間関係は表れていません。

当時の仲間の大半は役職者になり、今も会社で頑張っています。

 

 後悔が浮かぶ時もたまにありますが、辞めていなければ今の妻と息子には出会えておりません。

見事役者になった彼ではないですが私もしっかり前を向き、自身が息子に誇れることをこれからも模索していこうと思います。

 

 本日も長い文章にお付き合いいただきありがとうございました!

 

仕事についての閑話(主にサービス業)

 世の中には学校を卒業し、同じ職場でずっと勤め上げる方も多いかと思います。

私は転職回数が尋常じゃなく多く、アルバイトを含めると40ほどの仕事に就きました。

仕事の業種としては飲食業、貸金業、不動産業、保険代理店、広告代理店、販売業、宿泊業、卸売業等です。

 

 これだけ経験すれば、その中にはもちろん恵まれた環境で仕事に打ち込める職場にも出会いましたし、今思えばそこで長く働いていけば良かったなという後悔ももちろんございます。

 

 ただ私の悪い癖として、その仕事を大体覚えてしまうと急に退屈な気持ちが心の中に表れ、そこから離れたくなる衝動に駆られることです(何の刺激が欲しいんだか)。

 

 もちろん私の学歴では高度な知識と技能を駆使した仕事に就けるはずもなく、人生の大半はサービス業に携わっています。

そこも関係しているのではないかと思うのですが、サービス業は現場のオペレーションを極めると毎日がルーティンワークの繰り返しで、現場から離れれば今度は店舗を管理する仕事に変わっていく、それから地区統括、地域統括と管理の幅が増えていくのが普通の流れかと思います。

もちろん人の管理が一番大変ですし、十人十色と言われるようにそれぞれ個性があるので、みんながみんな言うことを素直に聞いてくれる人ばかりでは無いです。

それはそれでストレスを感じる人も多いかと思います。

 

 経験年数が長ければそこを上手くこなし、上手に人を扱っていけるスキルは出来てくるかと思いますが、そうなるとまたルーティンワークの繰り返し。

 そんなこともあり、中々同じ会社で長続きしないのが私の最大の欠点です。

 

 自分で言うのもなんですが、人当りも良く、スタッフやお客様受けがいい私なので、意外と転職先はすんなり決まってきました。

すんなり決まるのもサービス業という不人気職だからということも大いにあります。

あと最大の武器は「根暗」です。

いじめられっこだったこと、根底には暗い気持ちがあり、本来人と接するのが苦手なこと。

  

 これはあくまで私の持論ですが、根暗の人は人が苦手なぶん相手を良く観察するので、良くも悪くも「空気が読める」と思います。

なので相手が嫌がることは決してやらないのです。

 

 対照的によく根明な人って明るくて元気で周りを楽しませているように感じますが、私の中では空気が読めないなという人が多い気がします。

「俺はこんなに楽しくしてるのに、お前は何だよ」という圧を相手にかけるんです。

なので根明な人は明るく元気に楽しませている自分が好きなだけであって、サービス業のような業態ですと、まず相手ありきなので、積極的に話かけていく根明な人よりも、人の話を聞いてあげることが出来る根暗な人の方が向いているなということは多々感じてきました(あくまで本当に暗いではなく、社会に適用しようと頑張る根暗な人を指しております)。

 

  話は戻りサービス業ですが、思った以上に仕事はきついし、更にかなり薄給です。

何よりお客様も年々揚げ足取りのようなお叱りの言葉を投げかける方も多くなり、特にインターネットの普及で口コミという恐怖の評価を平気で悪用し、自身の都合が悪くなると「口コミで書くからな」と捨て台詞を吐く方もかなり増えました。

またその普及により調べれば何でも出てくるため、こちらも正確な情報しか提示出来ず、昔のような嘘も方便が通じなくなった世の中なので、簡単にはお応え出来なくなりました。

 

 また、非常にごね得のような風潮になりつつあり、ごねたもん勝ちのようになっているのが私個人の見解としてはとても残念です。

逆にインターネットが普及してからのほうがご自身で調べず、店員側に聞いてくるお客様が増えており、すごく不思議なのですが、多分責任の所存をご自身にしたくない表れなのではないかと推測しています。

 

 自身の生活に余裕が無いのに本来は人にやさしくなんて無理ですよね。

本当にサービス業で頑張っている人を見ると心から応援したくなりますし、私が客として行っても決して横柄な態度を取らず、どんなに若い店員さんがいても敬語を使うのが私のポリシーです。

 

 本日は一番長く携わっている仕事についての閑話をお届けしました。

 

 本日も長い文章にお付き合いいただきありがとうございました!

 

 

初めての結婚からの初めての離婚

 私の中では結婚生活は順調にいっていると勝手に信じておりました。

結婚から半年経ち、その時に初めて妻の異変に気づくのです。

ある日仕事を終えて家に帰ると、妻が家にいません。

当時は携帯電話がようやく普及した時代で、妻の携帯電話に電話をしましたが、もちろん出るはずもなく、何度かけても同じでした。

ひどく落ち込んだ私は、色々考えましたが、当時の私には自身の悪いところなど思いつくはずもなく、そこから1ヶ月半ほど時が流れました。

 

 私は妻が失踪してから、17kgほど体重が落ち、もともと60kg台あった体重が40kg台まで落ち、激痩せしていました。

やるせない時間を過ごしていたある日、仕事を終えて自宅に帰ると手紙が届いておりました。

手紙には私と別れて欲しい旨の記述と、離婚届が1通入っており、役所に提出して欲しいとの申し出が最後に記してありました。

 その事に素直に承知出来るはずのない私は、しばらく放っておくことにしました。

なかなか離婚に応じない私にしびれを切らした妻は、それから半年ほど経ったある日自宅ではなく職場に現れました。

 

 仕事を終え、ある喫茶店に入った2人でしたが、妻に涙ながらに懇願された私は離婚届を出す約束をし、その場を別れました。

 

 妻が離婚の原因に至った背景を真剣に考えた私は、色々なことに徐々に気づき始めたのです。

確かに結婚生活は順調にいっている感じはしておりましたが、あくまで私の自己満足であり、妻に対しての思いやり等は表面のみで、きちんと話を聞いて上げてなかったと思います。

 

 お金は2人で決めた額を当時夫婦名義で作れる口座があり、そこに毎月入金していました。

ただ、残ったお金は何も考えず無駄遣いし、ボーナスが入れば妻に相談もせずに高級時計を購入するなど、今考えても非常に勝手な考えでした。

さらに何か都合が悪くなると妻に対して「俺は自分と結婚するために役者を諦めたんだからいいでしょ」と全てを妻のせいにし、いつも逃げていた気がします。

 

 非常に真面目だったし、気が利く人でしたし、とても勉強家だった妻でしたが、その良さを潰すように、私の勝手ばかりを押し付け、知らず知らずのうちに妻の心を踏みにじっていたんだと思います。

 

 浮気はしないし、酒は飲まない、ギャンブルもしない。

確かにそうです。

ただ、そんなことでは無いと色々気づくのです。

妻がせっかく料理を作って待っていてくれているのに、友人と勝手に出かけて連絡もしない。

今考えてもひどい男だと感じます。

多分自分の中に「俺は役者を諦めてお前のために結婚してやった」という気持ちが見事にエゴとなって出ていたんだと思います。

 

 結婚時は私26才、妻22才でしたが、22才の妻の方がよっぽど大人だったんだと思います。

 

 しばらくして離婚届を提出し、妻に連絡しました。

離婚してからは逆に妻も安心したのか、しばらくの間はちょくちょく連絡を私にしてくれるようになりました。

私の中ではもしかしたら復縁出来る機会もあるかもしれないと勝手なことを想像しておりましたが、それを察したのかある日食事に元妻といく約束をしていたのですが、待ち合わせ場所にいっこうに現れませんでした。

 

 その後全く消息は分からず。

そして私の最初の結婚にピリオドが打たれました。

付き合った期間が4年半に対し、結婚期間は事実上わずか半年でした。

 

本当にバカだった26才の私でした。

 

本日も長い文章にお付き合いいただきありがとうございました!

 

1回目結婚について

 人生で初めての結婚で上手くいく人。

ある意味非常に羨ましく思えますし、お互いがきちんと話をするなり、譲り合ったり、色々軌道修正して結婚生活を送るのではないかと思います。

 

 最近はバツ1は当たり前の世の中になってきましたが、私の周りの友人(同じ年)では、誰も離婚した人はおりません。

何か自身に人として欠けた所があるのは自覚していますし、自分でいうのもなんですが、酒もギャンブルも女遊びもしておりません。

なのにバツ…。

 

 じゃ逆に本当に危ないやつなんじゃないという声が聞こえてくる気がしますが、今回ブログに綴ることで再検証してみようと思います。

 

 前回の話の続きですが、結婚話が出た私はとても悩んでおりました。

悩んだ理由はもちろん役者を捨て、普通の勤め人にならなければいけないという事です。

もちろん最初の妻を当時の私は愛していましたし、そこだけが自身の中でクリア出来れば何の問題も無かった訳です。

 

 ただそこで私は思いもよらぬ行動を起こすのです。

それは彼女に別れて欲しいと申し出ることでした。

もちろん向こうにも拒否されましたが、私は強引に振ってしまいました。

 

 その別れを告げてからしばらくして、知り合いの制作会社の方から電話をもらいました。

電話の内容はフジテレビの世にも奇妙な物語に出て欲しいという話でした。

私は心の中で「別れて良かった」と勝手な思いがあふれ、その方の話を聞いたのですが、何とまた被り物ではないですか!?

版権の関係でタイトルは出せませんが、ある役者さんが主人公で動物にさせられるという話なんですが、その動物の役を私が代役として演じることとなりました。

 

 ロケ先が晴海ふ頭の倉庫と羽田空港で行ったのですが、私は全身被り物をしているシーンもあれば、顔以外の部分を撮影するシーンもあり、顔だけ出ている時は以前の大河ドラマのロケと同じく、周りで撮影を見ている方たちに「誰あの人?」「有名なのかなぁ?」等の声が響き渡り、再度恥ずかしい思いをしました。

 

 ロケは無事終わり、放送も無事流され、ギャラも直接いただきましたが、私の心の中では少し変化が表れました。

「役者はやはり無理かも」と。

 

 その時の仕事はイタリアンカフェでアルバイトをしており、またフリーターの日常に戻っていったのですが、しばらくして最初の妻から連絡がありました。

「やはり結婚したい」「自分はどう思っているの」と。

 

 そんな思いをさせてしまったら男が廃ると思った私は就職先を探すことを始めました。

たまたまアルバイトをしていた先の店長が、「今度新店が出来るんだけど、お前正社員にならない?」という話をくれたため、渡りに船と言わんばかりに即お願いしました。

 

 正式に就職し、改めて妻の親御さんに挨拶に行き、私の両親を東京に呼び、結婚に至りました。

結婚式は挙げず、身内と友人だけを集め軽くパーティーを行いました。

 

 新居は古いマンションでしたが、東京オペラシティがベランダから見えるとても立地の良い物件でした。

私も社員になり、結婚もしたことで一層仕事に励み、何と半年後には他の社員を差し置いて店長に昇格し、ある意味順風満帆でした。

 

 ただ波乱万丈な私の人生には、破滅の道へ誘う影が現れかけているのでした。

 

 また次回お話出来ればと思います。

 

 本日も長い文章にお付き合いいただきありがとうございました!

 

 

世の中そんなに甘くない!?

 事務所に所属して半年も経たない内に芸能界デビューを果たした私はすっかり調子に乗っていました。

稽古は稽古で続けていましたが、社長が取ってくる仕事は時代劇が中心で、現代劇に出たい私はどんどんモチベーションが下がっていきました。

今思えば仕事があるだけでもありがたいのに、便利屋でそこそこ稼いでいた私は何と役者の仕事を断るという暴挙に出るのです(あーダメな男の典型パターン)。

事務所は小さい事務所でしたが、社長もすごく思いやりのある人で、ギャラに関しても事務所3割、役者7割と非常に厚待遇でした。

大河ドラマギャラもかなりの額が振り込まれており、私は有頂天になっていたかもしれません。

 

 徐々に事務所からも仕事の依頼も減り、時代劇ではなくキャラクターショーイベント等の被り物の仕事ばかりが増えていきました。

色々仕事をしている内に制作会社の方たちとも仲良くなる機会があったのですが、たまに裏方の仕事を手伝わせてもらうこともありました。

当時私は21才。

制作会社の方も、「役者はなかなか難しい世界だし、裏方として働いてみない?」とお誘いも受けました。

制作会社の方からの紹介で、あるマニア向けの写真集の雑用の仕事等、裏から見る芸能の世界の仕事も経験させてもらいましたが、自身がまだ若いということもあり、「ありがたいんですが、夢を諦められないのですいません」とお断りしました。

 

 それから数年経ち、ある雑誌の1コーナーに記事を載せていただけるという話がありました。

それは夢に臨む人がどんな暮らしをしているかという記事で、見開き2ページでしたが私の記事が掲載されました。

やはり雑誌に掲載されるのはうれしく、2冊買って1冊を実家に送り、何度も読み返したのを今でも覚えています。

 

 その雑誌の編集者の方も非常にいい方で、ある日電話がかかってきたのですが、テレビ局のプロデューサーを紹介したいと言われました。

もちろん二つ返事でお願いし、後日港区周辺のバーに会いにいきました。

会った瞬間から感じましたが、非常に高圧的な態度で偉そうにされており、席に着くなり「〇〇さんの紹介だから仕方なくあった」や「お前何かアピールできることあんの?」、「酒も飲めないなんてつまんねぇ奴だな(私は下戸です)」、「俺を納得させる自己アピールをしろ」とかなりむちゃな要求をしてきたことを鮮明に記憶しています。

 

 もちろん何も起こらないし、何も変わらないという結果です。

会いに行くまではラク的な要素を勝手に想像し、ワクワクドキドキしていましたが、帰り道はげんなりと肩を落として家路につきました。

 

 またしばらくして今度はロマンポルノ映画の出演依頼がありました。

私の頭によぎったのは、「そんな映画に出演したら祖母が悲しむし、出演自慢も出来ないな」でした。

またまた今考えれば本当に役者になりたいんであれば何でも貪欲に取り組むべきですし、チャンスと捉えるべきだと。

断った際に先方から「じゃ顔はあんまり出ない、電車の中で女性のお尻を触る役でもいいから」と言われましたが、私は結局断ってしまいました(何のプライドだか)。

 

 話は変わりますが、昨年ジムキャリー主演の「イエスマン」という映画を妻とDVDにて鑑賞しました。

"YESは人生のパスワード"というサブタイトルで、簡単にお話すると主人公が「ノー」という言葉を口癖にし、人生を後ろ向きに生きているのですが、あるセミナーに参加した事で「イエス」を繰り返すように変わっていくのですが、「ノー」から「イエス」に変えたことで人生がどんどん前向きになっていくというお話です。

 

 その映画を見た時に、私は今日の記事の内容を思い出しました。

やはり私は役者になりたいといいつつも、心の底から願っていたわけではないのでしょう。

本当になりたいなら何でも「イエス」と言っているはずです。

 

 話は戻りますが、その後私はバブル崩壊とともに便利屋の仕事もだいぶ数が減り、アルバイトを転々とする生活を送ることとなります。

アルバイトに関しても私の転職同様、かなりの数のアルバイトを経験しました。

便利屋のあとはカフェ店員、飲食店ホール、DPE店、レンタルビデオ店、服飾店倉庫、焼き鳥店、惣菜店、駐車場係、コンビニ店員、ビラ配り、レンタカー等上げればキリがないですがどれも長続きせずただただ生きていた気がします。

 

 一番最初の妻に出会ったのはカフェでアルバイトをしている時でしたが、その出会いによって私は役者を諦め、社会人としての1歩を後々踏み出すこととなります。

 

 最初の妻と付き合いだし、数年経った頃、私も26才になる年になっていました。

妻との結婚話も出てきて、「親に会って欲しい」と。

「いいよ」と気軽に言ったものの、フリーターの私に親御さんは「そんな訳も分からないどこの馬の骨ともいえない奴に娘は嫁がせられらない」と。

心の声「至極真っ当な意見です」。

その後には「役者やっているって言ったって、それで飯は食っていけないだろ」と。

心の声「おっしゃる通りです」。

 

 結局、その結婚話は延期という事になり、私の中で色々葛藤が生まれるのでした。

 

 また次回お話出来ればと思います。

 

本日も長い文章にお付き合いいただきありがとうございました!